本多正定とは? わかりやすく解説

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本多正定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/29 04:51 UTC 版)

 
本多正定
時代 戦国時代
別名 弥八郎(通称)[1]
主君 松平清康
氏族 本多氏
父母 父:本多忠正[1]
兄弟 正定、正行、助俊 [2]
俊正、八左衛門 [3]
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本多 正定(ほんだ まささだ、生没年不詳)は、戦国時代三河国武将本多正信の祖父にあたる。通称は弥八郎[1]

寛政重修諸家譜』によれば父の忠正とともに松平清康に仕えたとするが、『藩翰譜』によれば正信の家(本多弥八郎家)は正定の代に初めて松平清康に仕えたとする。

生涯

寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、本多忠正の長男[1]松平清康に仕えた[1]織田信秀安祥城を攻めた際(安城合戦)、城方の援軍に赴き、二弟の正行(弥七郎)と共に討死した[1]

なお、『寛政譜』の記載では、父の忠正、三弟の助俊も松平清康に仕え、信濃国の軍勢との戦いで戦死を遂げている[2]

藩翰譜』では、本多家は本多忠正の代に尾張国から三河国に移り、正定の代に松平清康(安祥二郎三郎)に仕えたと記している[4]

系譜

『寛政譜』では男子2人を載せる[3]

  • 長男:本多俊正 - 弥八郎、佐渡守。法名は周鎮。
  • 二男:本多八左衛門 - 法名は真慶。

俊正と八左衛門は、松平清康・広忠に仕えた[3]。俊正の子が本多正信らである。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.706
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.706-707
  3. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.707
  4. ^ 『藩翰譜』巻十一、吉川半七版『藩翰譜 第10上−11』58/87コマ

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