浜離宮恩賜庭園
浜御殿(はまごてん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:33 UTC 版)
「浪人若さま新見左近」の記事における「浜御殿(はまごてん)」の解説
甲府藩の下屋敷。お琴の事を頼むため権八とおよねを招き入れた他、お琴を守るために権八達が岩城道場や中屋の屋敷と転々としていたものの右京によって小五郎が戦闘不能に追い詰められたため、ここに移った。現在の浜離宮恩賜庭園にあたる。
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浜御殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 06:57 UTC 版)
尾張藩は東海道を往来する大名らを招待し供応するため、寛永元年(1624年)初代尾張藩主の徳川義直の命で神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島を造り、そこに東浜御殿を造営した。(「厚覧草」によれば寛永11年(1634年)には、三代将軍徳川家光が上洛の際に止宿した。その敷地は1万平方メートル以上、海上城郭の様相を誇っていたとされ、御殿は名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様であったと考えられている。鯱をいただいた小天守閣のような西側の高楼は、桑名城の天守閣に対抗して建造されたものという。これを桑名楼と呼び、東側の楼閣を寝覚(ねざめ)楼といった。1654年には七里の渡しの北西に西浜御殿を築いた。現在、その跡を見ることはできず、西浜御殿があった白鳥コミュニティセンター北側に看板が立っているだけである。浜御殿は、2018年に徳川林政史研究所(東京)において詳細な間取図が発見された。東浜御殿の位置は、現在の内田町付近であったと推定される。桑名楼と寝覚楼を持ち城郭のような構え、西浜御殿は平坦な邸だが内部の調度が豪華を極めていたという。歌川広重の浮世絵「宮 熱田濱之鳥居」にも画面左端にその姿が描かれている。
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