板倉勝澄とは? わかりやすく解説

板倉勝澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/29 17:13 UTC 版)

 
板倉勝澄
板倉勝澄像
時代 江戸時代中期
生誕 享保4年6月28日1719年8月13日
死没 明和6年5月3日1769年6月6日
改名 新平(幼名)、勝澄、源承(法号)
戒名

慈雲院殿嘉誠源承日明大居士

円乗院殿無山元承大居士
墓所 日蓮正宗総本山大石寺愛知県西尾市貝吹町入の長圓寺
官位 従五位下周防守相模守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
伊勢亀山藩主、備中松山藩
氏族 板倉氏
父母 板倉重治、村井氏
戸田忠余[1]
根津氏、植原氏、福村氏
勝武、戸田光邦、勝従勝行勝政
勝峯、伊奈忠尊、勝房、前田利尚正室、
堀直泰正室、巨勢利喬正室、
菅沼定前正室、本多忠盈正室ら
テンプレートを表示

板倉 勝澄(いたくら かつずみ)は、伊勢国亀山藩2代藩主、備中国松山藩初代藩主。板倉家宗家7代。

生涯

伊勢亀山藩初代藩主・板倉重治の長男。享保9年(1724年)閏4月、家督を継ぐ。病がちで、幕府からは、東海道の要衝、亀山の統治に堪えないと判断され、延享元年(1744年)3月、石川総慶と交代する形で、伊勢亀山から備中松山へ移封される。延享3年(1746年)には松山に学問所を創設し、藩士子弟の教育に努めた。寛延4年(1751年)9月23日、長男の勝武に家督を譲って隠居し、剃髪して源承と号した。明和6年(1769年)5月3日、51歳で死去した。

系譜

板倉勝澄公墓所・板倉家歴代墓(日蓮正宗総本山大石寺)

脚注

  1. ^ 元文六年武鑑

関連項目

先代
板倉重治
板倉宗家当主
1724年 - 1751年
次代
板倉勝武




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「板倉勝澄」の関連用語

板倉勝澄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



板倉勝澄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの板倉勝澄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS