戸田忠余とは? わかりやすく解説

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戸田忠余

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/22 13:25 UTC 版)

 
戸田忠余
戸田忠余の墓(合葬墓碑)
時代 江戸時代中期
生誕 元禄2年1月20日1689年2月9日
死没 延享3年6月16日1746年8月2日
改名 彦四郎(幼名)、忠余
戒名 瑞麟院殿忠山玄功大居士
墓所 栃木県宇都宮市英巌寺
官位 従五位下、越前守、日向
幕府 江戸時代
下野国宇都宮藩
氏族 戸田氏
父母 父:戸田忠章、母:高閑院
養父:戸田忠真
兄弟 忠余、忠胤、九鬼隆抵大関増恒正室
正室:なし、側室:芳春院
秋元喬求忠盈忠寛木下俊胤、娘(板倉勝澄正室のち岩城隆恭正室)、娘(青山忠高正室)、養子:忠久
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戸田 忠余(とだ ただみ)は、下野宇都宮藩の第2代藩主。宇都宮藩戸田家5代。

略歴

元禄2年(1689年)1月20日、宇都宮藩戸田家分家で7000石を領した大身旗本・戸田大学忠章(宇都宮藩戸田家3代・戸田忠昌の五男)の長男として江戸で生まれる。元禄14年(1701年)8月29日に初代藩主・戸田忠真の養子となる。元禄16年(1703年)12月21日に従五位下・越前守に叙任される。正徳4年(1714年)9月7日に日向守に遷任する。第8代将軍徳川吉宗日光社参が行なわれた際、養父の忠真は老中として江戸にあったため、代理として宇都宮城に宿泊した吉宗に謁見している[1]

享保14年(1729年)、忠真の死去により家督を継いだ。延享3年(1746年)6月16日に死去。享年58。先代・忠真の六男で養子の忠久が早世したため、家督は次男の忠盈が継いだ。

系譜

父母

  • 戸田忠章(実父)
  • 高閑院 - 正室(実母)
  • 戸田忠真(養父)

側室

  • 芳春院
  • 小川氏

子女

養子

脚注

  1. ^ 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月、64頁。 



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