戸田忠盈とは? わかりやすく解説

戸田忠盈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 13:36 UTC 版)

 
戸田忠盈
戸田忠盈の墓(合葬墓碑)
時代 江戸時代中期
生誕 享保15年6月2日1730年7月16日
死没 天明元年7月28日1781年9月16日
改名 慶次郎(幼名)、忠盈
別名 忠辰
戒名 勧善院殿前従五位下兼伊州大守徳巌全大居士
墓所 栃木県宇都宮市英巌寺
官位 従五位下日向守能登守伊賀守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重
下野宇都宮藩主、肥前島原藩
氏族 戸田氏
父母 戸田忠余
兄弟 秋元喬求忠盈忠寛木下俊胤
智鏡院源空浄本、青山忠高正室
直、倉
直太郎、忠興、栄之助、力、利尾、忠寛
テンプレートを表示

戸田 忠盈(とだ ただみつ)は、下野国宇都宮藩3代藩主、肥前国島原藩初代藩主。宇都宮藩戸田家6代。

略歴

享保15年(1730年)6月2日、宇都宮藩の第2代藩主・戸田忠余の次男として江戸屋敷で生まれる。父・忠余は養父の戸田忠真の六男・戸田忠久を養子に迎えていたが、その忠久が享保13年(1728年)8月8日に早世し、実兄(秋元喬求)も秋元家の養子となったため、戸田家の世子となる。延享元年(1744年)12月16日に従五位下・日向守に叙任される。延享3年(1746年)の父の死去により家督を継いだ。

忠盈は宇都宮の人心が荒廃していることを憂い、延享5年(1748年)に領内に「御教条之趣」を出した。これは領民が守るべき心得を訓示したものであり[1]、厳罰で対処せず、誠心や孝行で民を教化することに努めた[2]

寛延2年(1749年)7月23日、肥前島原藩に移封となる[1]。しかし病弱なため、宝暦4年(1754年)7月25日、25歳の時に病気を理由に家督を養子(弟)の忠寛に譲って隠居[1]、以後は江戸で余生を送った。天明元年(1781年)7月28日に死去。享年52。

系譜

父母

側室

子女

養女

脚注

  1. ^ a b c 坂本 2011, p. 64.
  2. ^ 坂本 2011, p. 65.

参考文献

  • 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月。 




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戸田忠盈」の関連用語

戸田忠盈のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戸田忠盈のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの戸田忠盈 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS