青山忠高とは? わかりやすく解説

青山忠高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/14 08:11 UTC 版)

 
青山忠高
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 享保19年11月5日1734年11月29日
死没 文化13年8月14日1816年9月5日
改名 秀五郎(幼名)、正幸(初名)、忠高、有斎(法号)
戒名 徳峯院孤燐有斎
墓所 兵庫県丹波篠山市岡屋の幡龍庵
官位 従五位下下野守左衛門佐
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治
丹波篠山藩
氏族 青山氏
父母 青山幸秀、寂林院
青山忠朝
兄弟 金次郎、藤七、幸道幸篤、幸充、
忠高相馬恕胤正室、幸弼
戸田忠余、桂香院
岡部長備正室、忠講牧野忠精正室、
忠裕、松平信弥正室、武田信誼室ら
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青山 忠高(あおやま ただたか)は、江戸時代中期の大名丹波国篠山藩2代藩主。官位従五位下下野守左衛門佐。青山家宗家16代。

生涯

享保19年(1734年)11月5日、丹後国宮津藩主・青山幸秀の七男として江戸で誕生した。

宝暦4年(1754年)8月12日、篠山藩の初代藩主で叔父に当たる青山忠朝の養子となり、12月18日に従五位下・下野守に叙位・任官する。宝暦10年(1760年)に忠朝が死去したため、家督を継いだ。このとき、を正幸から忠高と改名している。

明和3年(1766年)4月、藩校・振徳堂を創設し、文武の奨励や教育制度の確立に努めた。さらに農業振興のために治水工事などに尽力したが、洪水や旱魃などの天災が相次ぎ、百姓一揆も起こって藩政は多難だった。天明元年(1781年)6月24日、家督を次男の忠講に譲って隠居し、左衛門佐に遷任する。寛政元年(1789年)4月1日、剃髪して有斎と号した。

文化13年(1816年)8月14日、死去。享年83。

系譜

脚注

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 8頁。

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