本多助受とは? わかりやすく解説

本多助受

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/29 03:26 UTC 版)

 
本多助受
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦14年5月4日1764年6月3日
死没 文政7年6月13日1824年7月9日
改名 彦三郎(幼名)、
別名 左門(通称)、助富(別名)
戒名 文教院殿前志州太守寛与知量有道大居士
墓所 東京都港区六本木の教善寺
官位 従五位、豊後守、志摩
幕府 江戸幕府大坂加番
主君 徳川家治家斉
信濃飯山藩
氏族 本多氏
父母 父:本多助之、母:堀田正亮の娘
養父:本多助盈
正室丹羽高庸の娘
彦三郎、助実、娘(本多助賢正室)、娘(中根正寛室)
養子:助賢
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本多 助受(ほんだ すけつぐ)は、信濃飯山藩の第5代藩主。広孝系本多家9代。

生涯

宝暦14年(1764年)5月4日、第4代主・本多助盈の長男・本多助之の長男として生まれる。助之は早世したため、助受が祖父助盈の嫡子となった。安永3年(1774年)3月29日、祖父・助盈の死去により家督を相続した。安永9年5月1日、将軍徳川家治に拝謁する。天明2年(1782年)12月19日、従五位下豊後守に叙任する。天明5年(1785年)8月から翌年8月まで大坂加番を務める。寛政元年(1789年)4月、日光祭礼奉行を務める。

寛政6年(1794年)には大火が起こって領内で大被害を受け、さらにこの年に琉球使節との応対を任されていたにもかかわらず、その使節の音楽を聴いていたときに失礼があったとして、寛政7年(1795年)まで出仕を停止させられている。寛政10年(1798年)にも大火で領内に大被害を受けた。

文化3年(1806年)7月23日、隠居し、養子の助賢に家督を譲る。文政7年(1824年)に志摩守に遷任するが、直後の6月13日に江戸で死去した。享年61。

系譜

父母

正室

子女

養子






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