松平忠倶とは? わかりやすく解説

松平忠倶

読み方まつだいら ただとも

江戸前期大名。名は助。遠江守、のち従五位下となる。寛永16年の時家督譲られ飯山に移る。元禄9年(1696)歿、63才。法名は然誉梵道恵正院

松平忠倶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/06 03:13 UTC 版)

 
松平忠倶
時代 江戸時代前期
生誕 寛永11年10月22日1634年12月12日[1]
死没 元禄9年5月26日1696年6月25日
改名 忠政→忠樹(ただむら)→忠親→忠倶[2][3]
別名 万助[2](幼名)
神号 美織阿夜多良志毘古命[注釈 1]
戒名 深正院然誉浄梵道恵[2]
墓所 長野県飯山市奈良沢の忠恩寺
官位 従五位下遠江守[2]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
遠江掛川藩主→信濃飯山藩
氏族 桜井松平家
父母 父:松平忠重、母:木下延俊の娘
兄弟 忠倶織田信勝正室
松平定行の養女
忠継、田中主殿室
養子:覚応院喜連川昭氏田中定賢室忠敏
継承者:忠喬
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松平 忠倶(まつだいら ただとも)は、江戸時代前期の大名遠江国掛川藩の第2代藩主、後に信濃国飯山藩の初代藩主。桜井松平家9代。官位従五位下遠江守

略歴

寛永11年(1634年)、掛川藩主・松平忠重の長男として誕生した[2]

寛永16年(1639年)2月12日、6歳の時に父が死去した[2]。3月3日付けで家督を継ぐことが認められたが[2]、幼少であったために[3]即日信濃国飯山藩への移封を命じられた[2]。将軍徳川家光への拝謁はこれよりも遅れ、7月9日となった[2]。帝鑑間伺候という席次は、以後桜井松平家の例となった[2]

正保3年(1646年)12月、従五位下・遠江守に叙位・任官する[2]万治元年(1658年)から大坂加番に任じられ、その後も要職を歴任した。

藩主として初めて領国に入ったのは承応2年(1653年)のことであった[2]。寛文4年(1664年)に領知朱印状を下される[2]。藩政においては播磨国出身の野田喜左衛門(正満)を登用し[5][注釈 2]千曲川の治水工事や灌漑水路の開鑿・新田開発を行い[3]、飯山藩の基礎を固めた[3]

天和2年(1682年)には越後高田領[注釈 3]の検地業務に当たった[2]元禄8年(1695年)3月に4回目の大坂加番に任じられて任地に赴いたが病に倒れ、元禄9年(1696年)5月26日に大坂で病死した[2]。享年63[2]

嫡男の忠継は病によって元禄7年(1694年)に廃嫡し[7]、忠継の長男である忠敏を後継者とした[7]。しかしその忠敏も間もなく早世したため[7]、忠敏の弟にあたる忠喬が跡を継いだ。

系譜

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[8]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

補足

  • 二男も三男も「母は某氏」と記される。三男の記載に、二男と同母であることを示す「母は上に同じ」とは記されていない[7]
  • 養女のうち2人の実父である織田信勝(丹波柏原藩主)は、忠倶の姉の夫である。
  • 『寛政譜』には、養女の1人は「水野土佐守重上」に嫁いだと記され、養女の1人は「水野土佐守良安」の娘と記されているが[7]、重上と良安は同一人物(重上の初名が良安)である[10]

脚注

注釈

  1. ^ うまおりあやたらしひこのみこと。桜井神社(兵庫県尼崎市)の祭神として追贈された神号[4]
  2. ^ 忠倶が大坂加番を務めた際、喜左衛門を知って飯山藩に招聘した。喜左衛門は川除普請奉行を約30年にわたって務め、領内に12本の用水を開削、新田開発に道を開いた[6]
  3. ^ 延宝9年/天和元年(1681年)、越後騒動によって高田藩松平光長が改易された。

出典

  1. ^ 岩城卓二. “藩主の一生”. Web版 図説尼崎の歴史. 2025年5月6日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.28
  3. ^ a b c d 松平忠倶”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月25日閲覧。
  4. ^ 櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
  5. ^ 野田喜左衛門”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月25日閲覧。
  6. ^ 用水の神様 野田喜左衛門”. 長野市立豊野東小学校+Plus. 2021年11月25日閲覧。
  7. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.29
  8. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.28-29
  9. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第四百九十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.576
  10. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第三百三十六、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.881

参考文献

  • 寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/24
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)

関連項目

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