松平信孝_(小島藩主)とは? わかりやすく解説

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松平信孝 (小島藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 18:47 UTC 版)

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松平信孝
時代 江戸時代前期
生誕 明暦元年(1655年
死没 元禄3年10月17日1690年11月17日
改名 助十郎(幼名)→信孝
戒名 源松院殿尊誉一法大居士
墓所 東京都台東区下谷の英信寺
官位 従五位下但馬守安房守
幕府 江戸幕府若年寄
主君 徳川家綱綱吉
駿河小島藩
氏族 形原松平家滝脇松平家
父母 父:松平典信、養父:松平重信
兄弟 信孝信利松平光永正室、
板倉重郷養女、戸田重恒正室、
松平忠充正室、松平氏辰室、信庸
真田信音正室、永井直敬正室、
松平近禎正室
正室:松平乗政
養子:信治[1]竹中重栄室
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松平 信孝(まつだいら のぶなり)は、江戸時代前期の大名駿河国小島藩初代藩主。滝脇松平家8代。官位従五位下但馬守安房守石高は初め6000石、後に1万石。江戸幕府小姓組番頭・御側衆・書院番頭若年寄を務める。

生涯

明暦元年(1655年)、丹波国篠山藩2代藩主・松平典信の庶長子として誕生した。

寛文11年(1671年)、駿府城代であった大叔父松平重信の養子となり、延宝元年(1673年)の養父の死去により家督を継いだ。

その後、小姓組番頭・御側衆・書院番頭・若年寄と栄進する。天和3年(1683年)の武鑑では「松平但馬守」が小姓組7番組番頭として記載されているのが見える。部下にあたる小頭は仙石久尚(仙石丹波守)(1000石)。屋敷は飯田町の上。

加増も受けて元禄2年(1689年)には合計1万石の大名となって諸侯に列したことから、小島藩主となった。しかし翌元禄3年(1690年)10月17日に死去した。享年36。跡を甥で養子の信治が継いだ。

人物

有能な人物であり、史書においても「領内に善政を布き、領民を思いやる、そして文武両道の名君であった。しかし若くして病死したことが惜しまれる」と評されている。

脚注

  1. ^ 戸田重恒(6400石の旗本)の次男

参考文献

  • 橋本博『大武鑑・中巻』名著刊行会、1965年5月10日発行他



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