仙石久尚
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仙石 久尚(せんごく ひさなお、承応元年8月19日(1652年9月21日) - 享保20年7月23日(1735年9月9日))は、江戸時代中期の旗本。江戸幕府大目付。通称は次兵衛(じへえ)。官位は従五位下丹波守・伯耆守。隠居後には丹波入道と呼ばれた。
- ^ 中島康夫『大石内蔵助の生涯 真説・忠臣蔵』114p(赤穂義士会)
- ^ 同時期に本家である旗本5千石家の仙石久治(仙石兵庫。兄の久信の子。定火消として知られた。)も実子にすべて先立たれ、60半ばになっても後継がなく家中混乱が起きている。
- ^ 「寛政重修諸家譜 巻第307」
- ^ 『寛政重脩諸家譜・文化9年』より「仙石 久尚 通称次兵衛、官名丹波守、伯耆守、法名宗毅」
- ^ 町奉行の扱いとなる「江戸市中における浪人集団の凶行」などではなく、あくまで大名家同士の諍いであるとする体裁を取るため、大目付に届けるのが妥当と判断した、など。
- ^ 肥後藩細川家は泉岳寺から直接移送と勘違いし、江戸家老三宅藤兵衛の指図によりその旨の準備(17人の預かり担当に対し、警護含む人員847人)がされたが、仙石邸からの受取と知って急遽行先を変更した上で、当時としてはかなり夜間となる午後10時に仙石邸から17名の受け取りを行っている。これにより、現場では多少の混乱・情報の錯綜があったことが窺い知れる。
- ^ 大河ドラマ「元禄繚乱」(第48回)、TVドラマ「大忠臣蔵」(第52回)など。
- ^ 宮澤誠一著『近代日本と「忠臣蔵」幻想』
- ^ 尾藤正英『日本の歴史19 元禄時代』
- ^ 山本博文『これが本当の「忠臣蔵」』
- ^ 岡崎藩『水野家御預記録』
- ^ 久松松平家文書「波賀清太夫覚書」
- ^ 『出石藩文書』「御用部屋日記」など(豊岡市立図書館)[要ページ番号]
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