離脱後についての考察など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:40 UTC 版)
「寺坂信行」の記事における「離脱後についての考察など」の解説
寺坂が討ち入りに加わりながら幕府の追手に掛らなかったのはすべて仙石久尚の意向による。浅野長矩の親戚である仙石は、大石が出頭した大目付であり、評定所では浅野びいきの判決を出した人物である。離脱後の寺坂には、大目付仙石久尚の決定により一切の追手はかからなかった。そのまま吉田兼亮の娘婿の伊藤治興に奉公している。伊豆大島に遠島に処された兼亮の遺児吉田兼直にも忠義を尽くしている。遠島の際の見送り、赦免後の出迎え、伊藤家までの護送、すべて寺坂が行っている。その後、仙石久尚の元に出頭したと言われるが、久尚は一切罪を問わず、逆に金子を与えて送り出した。 しかしその後伊藤家を離れたようで享保8年(1723年)3月頃には江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめている。青木義正が大正期に書いた『土佐史壇』では、同年6月頃には曹渓寺の口利きで、土佐藩主山内家の分家麻布山内家の第3代山内豊清(主膳)に仕えて士籍を得たと記される。このときに今日にまで残る寺坂の「親類書」が提出されたという。しかし、実際には豊清は麻布山内家の大名ではなく旗本であり(武鑑等では、山内豊産に始まる1万3000石の大名を麻布山内家と称す)、当時の山内家の文献(山内家文書(土佐藩および麻布山内家)・『土佐藩御役人帳』ほか)には記録はない。
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