赤穂事件
元禄赤穂事件
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元禄14年(1701年)3月14日、江戸城内にて播磨赤穂藩主の浅野長矩が高家筆頭の吉良義央に斬り付け、吉良が負傷する事件が発生し、同件の処分として浅野家の改易および赤穂城の城召し上げが決定された(元禄赤穂事件)。翌日15日、収城目付(幕府常任の目付職ではない)に荒木と榊原政殊が任命され、一月後の4月15日に赤穂藩領入りした。4月18日、同役の榊原、石原正氏(幕府代官)、岡田俊陳(幕府代官)らと共に赤穂城を検分した。 同検分は落合勝信の『江赤見聞記』に拠れば、以下のようであったとされる。赤穂藩家老の大石良雄はこの幕臣4人が金の間で休息中、お茶と菓子を勧め、浅野長矩の弟浅野長広をもっての浅野家再興を願い出たが、4人は何も答えず、その場を立って大書院の方へ行った。大石は大書院検分中の4人に再度願い出たが、また声をかけてもらえなかった。検分が終わり帰ろうとする4人を、大石は玄関にて再びお茶を出して引き止め、三度浅野家再興を願い出た。大石の必死さを見かねた石原が荒木に対して幕閣への取りなしを打診し、荒木や榊原はこれを了承し、大石は礼を述べた。 6月1日までに江戸に戻った荒木らは、将軍徳川綱吉や老中・若年寄らに収城の報告をおこない、併せて大石から浅野家再興の嘆願があったことを伝えた。結局浅野家再興の嘆願は却下され、浅野長広は本家広島藩へお預けとなり、大石の浅野家再興運動は挫折した。8月28日、荒木は幕府目付に就任した。その後、大石を中心とする赤穂浪士たちが吉良邸へ討ち入り、主君の仇である吉良義央を討ち取った。幕府の裁決で赤穂浪士は全員切腹とされた際、荒木は元禄16年(1703年)2月4日、細川綱利邸(大石ら一部浪士の預かり先)へ上使御目付として御使番の久永信豊らと派遣されて、大石良雄らの切腹処分の申し渡しを行い、検死役を務めた。
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元禄赤穂事件
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金丸は婿養子の武庸とともに仇討ちを主張する急進派の中心となった。元禄15年(1702年)、大石良雄は仇討ちを決定して江戸に下り、金丸は「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。討ち入りの前夜、討ち入り参加者は金丸宅に立ち寄ってからそれぞれの集合場所に行くことになった。なお、吉田兼亮らは金丸宅を辞してから本所林町五丁目に武庸が借りていた相宅に行く途中、両国橋の東の竪川の川岸にある「亀田屋」という茶屋(遊女屋)に寄り、最後の宴を催した。なお、そのときにでた蕎麦のことから、「討ち入り前に蕎麦屋の二階に集合した」という話が創作されたといわれる。 12月15日未明、大石ら47人の赤穂浪士は吉良義央の屋敷に討ち入る。金丸は表門隊に属していたが、自宅から出て遅れて東門前に到着した。高齢のため、梯子を使って屋根に上るにも連れてきた家僕の助けを借りたという。討ち入り後は、武庸の従兄(佐藤条衛門)に付き添われて両国橋前の広場まで行き、そこからは泉岳寺まで籠に乗って行った。泉岳寺からお預け先の細川綱利屋敷に行く予定が変更になり、大目付の仙石久尚屋敷まで行ってそこから細川屋敷に行った。両行程とも金丸は籠に乗って行った。 元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により、切腹した。享年77。戒名は、刃毛知劔信士。同志のうち最年長者だった。
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元禄赤穂事件
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元禄15年12月15日(1703年1月31日)に発生した赤穂事件に関して、定直は赤穂浪士47名のうち大石良金・堀部武庸・木村貞行・中村正辰・菅谷政利・千馬光忠・不破正種・大高忠雄・貝賀友信・岡野包秀の10名の預かりを命じられた。この頃、病床にあった定直は江戸城への登城ができず家臣を通じてこの命令を受けた。 元禄16年1月5日(1703年2月20日)になって浪士達と会見。会見の遅れへの謝罪と仇討ちへの称賛を送り、「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない。用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない」と述べている。しかし実態は、次段以降のように酷い待遇だったので、山本博文は定直の言いようは「形ばかりの御為ごかし(自身の体裁を繕うだけの建前)」に過ぎず、本心とは違うと分析している。 松山藩では義士を罪人として扱い、厳しい対応をした記録が松平家に多数残る。護送は厳重を極め、藩士は鎖を着込み具足も携行している。「鉄砲まで準備して警備」し見回り番、不寝番を置いた。「火の許不用心」という理由で煙草・酒・風呂・暖房具(炭火など)も禁じた。更にまだ処分も決まってない時期から、全員の切腹における介錯人まで決めてしまった。当日は「早天より切腹人に水風呂使わし、みな謦咳の有様にて切腹申付を憂惧して拝す」とある。切腹の際は「切腹人の後ろに持筒一人」と鉄砲足軽を待機させ、小脇差を手にした義士が暴れた時に備えた。 特に大石良金に対しては、介錯人・波賀清太夫が「切腹者が小脇差を取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ、目付に見せる」など無礼な扱いをした記述がある。波賀が手柄顔で大石の落とした首を振り回したので、血が飛び散ったとされる「主税梅」が泉岳寺には現存する。宮澤誠一は、波賀が日頃から武術の鍛錬ばかりしている古武士タイプであり、お預かりと切腹に千載一遇の働きどころと張り切り、気合いが入っていたのではないかと述べている。 切腹後に松平家用人・三浦七郎兵衛は、義士の遺体や持物を藩で勝手に処分しようとしたが、老中・秋元喬朝から「泉岳寺へ遣わすよう」指示されている。御徒組頭が足軽を率いて同寺に葬送した。また定直は、介錯した者へは衣類・刀等を改めるべしと金子を与えた。 これらのことが「細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」(当時の狂歌)と批判された。(それでも、近年は松山市を義士会が訪れ赤穂義士祭が行われるなど赤穂市と交流がある。)
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元禄赤穂事件
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元禄14年(1701年)3月14日に播磨赤穂藩主浅野長矩が高家吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。 また翌年12月15日、赤穂浪士が吉良義央の首を挙げて幕府に出頭した後には、そのうち間光興・奥田行高・矢頭教兼・村松高直・間瀬正辰・茅野常成・横川宗利・三村包常・神崎則休9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。 巷間では、「大石良雄を預かった肥後熊本藩主細川綱利に倣って、浪士たちを賞賛しよくもてなした」と伝わっている。しかし、綱利が細川邸に入った後の浪士たちの元へすぐさま自ら赴いて大石たちと会見したのに対して、忠之は21日になってようやく浪士たちと会見している。 また、忠之は赤穂義士を使ってない長屋に入れ、外から戸障子などを釘付けにした。「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」とあり、更に二重の囲いを設け、藩士に昼夜問わず長屋の内外を巡回させた。「寒気強く候にて火鉢これを出さず」、布団を増やせとの要求も「臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」と冷遇した記録が残る。酒も出さず、お預かりから暫くは体も洗わせなかった(『水野家御預記録』)。 その後、2月4日に幕命に従って、目付・久留正清と使番・赤井時尹の立会のもと、九士を切腹させた。 ただし、その後の水野家では不幸が続き、忠辰から忠任の代には父祖伝来の三百年にわたる故郷である三河から追われる。水野騒動の処罰と転封、虹の松原一揆などによる混乱や藩主押し込め、浪人や町人による藩邸襲撃、それらに伴う屋敷の移動で忠之時代の遺構(浪士が切腹した畳二枚、供養塔など)は散逸してしまい、現在は新たな水野家の屋敷跡に、石灯篭(「降る石や 瓦飛び散る 水の家」 句があり、前屋敷が襲撃されたのちに置かれたもの。)、二か国語の案内板、由来不明の丸石と木製ベンチが残る。
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元禄赤穂事件
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「浅野が天子様の勅使御馳走を削ろうとし(前回と同じ七百両で計算)、吉良の反対にあい立腹したのが原因。時代経過(元禄改鋳による物価上昇)があるのに其れも読めず、三月十四日事件になった」という見解を俳書に記している。
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元禄赤穂事件
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元禄14年(1701年)3月14日、播磨国赤穂藩主・浅野長矩が刃傷沙汰を起こし、即日切腹を命じられた。この時、一関藩田村家が事件後の長矩の身柄を預かるよう命じられ、夕刻に芝の一関藩邸に長矩が護送されて来たが、それから一刻と経たないうちに大目付・庄田安利の指示があり、藩邸の庭で浅野長矩の切腹が執行された。 対応が悪かった記録が残っており、長矩は着用していた大紋を脱がされ、収容された座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。また庭先で筵の上で切腹させる、介錯に使おうと田村家伝来の由緒ある刀を家臣が持ち出してきたので建顕が激怒した、切腹した場所には今後誰も近づかないよう藩士に厳命した、長矩の遺言を隠したともいわれる。藩邸には墓や供養塔の類は一切なかった(戦後になって藩邸跡に切腹した場所を示す「浅野内匠頭終焉の地」碑が建設されたが、現在は撤去されている)。
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