元禄赤穂事件とは? わかりやすく解説

赤穂事件

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赤穂事件(あこうじけん)は江戸時代中期の元禄期に発生した事件で、吉良上野介を討ち損じて切腹に処せられた浅野内匠頭の代わりに、その家臣である大石内蔵助以下47人が、吉良を討ったものである。




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元禄赤穂事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 17:14 UTC 版)

荒木政羽」の記事における「元禄赤穂事件」の解説

元禄14年1701年3月14日江戸城内にて播磨赤穂藩主の浅野長矩高家筆頭吉良義央斬り付け吉良負傷する事件発生し、同件の処分として浅野家改易および赤穂城の城召し上げ決定された(元禄赤穂事件)。翌日15日、収城目付幕府常任目付職ではない)に荒木榊原政殊任命され一月後の4月15日赤穂藩入りした。4月18日同役榊原石原正氏幕府代官)、岡田俊陳幕府代官)らと共に赤穂城検分した。 同検分落合勝信の『江赤見聞記』に拠れば、以下のようであったとされる赤穂藩家老大石良雄はこの幕臣4人が金の間で休息中、お茶菓子勧め浅野長矩の弟浅野長広をもって浅野家再興願い出たが、4人は何も答えずその場立って大書院の方へ行った大石大書院検分中の4人に再度願い出たが、また声をかけてもらえなかった。検分終わり帰ろうとする4人を、大石玄関にて再びお茶出して引き止め三度浅野家再興願い出た大石必死さを見かねた石原荒木に対して幕閣への取りなし打診し荒木榊原はこれを了承し大石は礼を述べた6月1日までに江戸戻った荒木らは、将軍徳川綱吉老中若年寄らに収城の報告おこない併せて大石から浅野家再興嘆願があったことを伝えた結局浅野家再興嘆願却下され浅野長広本家広島藩お預けとなり、大石浅野家再興運動挫折した8月28日荒木幕府目付就任したその後大石中心とする赤穂浪士たちが吉良邸へ討ち入り主君の仇である吉良義央討ち取った幕府裁決赤穂浪士全員切腹とされた際、荒木元禄16年1703年2月4日細川綱利邸(大石一部浪士預かり先)へ上使御目付として御使番の久永信豊らと派遣されて、大石良雄らの切腹処分申し渡し行い検死役を務めた

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元禄赤穂事件

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堀部金丸」の記事における「元禄赤穂事件」の解説

金丸婿養子の武庸とともに仇討ち主張する急進派中心となった元禄15年1702年)、大石良雄仇討ち決定して江戸下り金丸は「浅野内匠家来口上書」の草案書いた討ち入り前夜討ち入り参加者金丸宅に立ち寄ってからそれぞれの集合場所に行くことになった。なお、吉田兼亮らは金丸宅を辞してから本所林町五丁目に武庸が借りていた相宅に行く途中両国橋の東の竪川川岸にある「亀田屋」という茶屋遊女屋)に寄り最後の宴催した。なお、そのときにでた蕎麦のことから、「討ち入り前に蕎麦屋二階集合した」という話が創作されといわれる12月15日未明大石47人の赤穂浪士吉良義央屋敷討ち入る金丸表門隊に属していたが、自宅から出て遅れて東門前到着した高齢のため、梯子使って屋根上るにも連れてきた家僕助け借りたという。討ち入り後は、武庸の従兄佐藤衛門)に付き添われ両国橋前の広場まで行き、そこからは泉岳寺まで籠に乗って行った泉岳寺からお預け先の細川綱利屋敷に行く予定変更になり、大目付仙石久尚屋敷まで行ってそこから細川屋敷行った。両行程とも金丸は籠に乗って行った元禄16年1703年2月4日江戸幕府の命により、切腹した。享年77戒名は、刃毛知信士同志のうち最年長者だった。

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元禄赤穂事件

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松平定直」の記事における「元禄赤穂事件」の解説

元禄15年12月15日1703年1月31日)に発生した赤穂事件に関して、定直は赤穂浪士47名のうち大石良金堀部武庸木村貞行中村正辰菅谷政利千馬光忠不破正種大高忠雄貝賀友信岡野包秀10名の預かり命じられた。この頃病床にあった定直は江戸城への登城ができず家臣通じてこの命令受けた元禄16年1月5日1703年2月20日になって浪士達と会見会見の遅れへの謝罪仇討ちへの称賛送り、「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない用事があれば遠慮なく家臣申し付けてくれてかまわない」と述べている。しかし実態は、次段以降のように酷い待遇だったので、山本博文は定直の言いようは「形ばかり御為ごかし自身体裁を繕うだけの建前)」に過ぎず本心とは違うと分析している。 松山藩では義士罪人として扱い厳しい対応をした記録松平家多数残る。護送は厳重を極め藩士は鎖を着込み具足携行している。「鉄砲まで準備して警備」し見回り番、不寝番置いた。「火の許不用心」という理由煙草・酒・風呂暖房具(炭火など)も禁じた。更にまだ処分決まってない時期から、全員切腹における介錯人まで決めてしまった。当日は「早天より切腹人に水風呂使わし、みな謦咳有様にて切腹申付憂惧して拝す」とある。切腹の際は「切腹人の後ろに持筒一人」と鉄砲足軽待機させ、小脇差を手にした義士暴れた時に備えた。 特に大石良金に対しては、介錯人・波賀清太夫が「切腹者が小脇差取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ目付見せる」など無礼な扱いをした記述がある。波賀が手柄顔大石落とした首を振り回したので、血が飛び散ったとされる主税」が泉岳寺には現存する宮澤誠一は、波賀が日頃から武術鍛錬ばかりしている古武士タイプであり、お預かり切腹千載一遇の働きどころと張り切り気合い入っていたのではないか述べている。 切腹後に松平家用人三浦七郎兵衛は、義士遺体持物を藩で勝手に処分しようとしたが、老中秋元喬朝から「泉岳寺遣わすよう」指示されている。御徒組頭が足軽率いて同寺に葬送した。また定直は、介錯した者へは衣類・刀等を改めるべしと金子を与えた。 これらのことが「細川水の水野忠之流れ清けれど ただ大海毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」(当時狂歌)と批判された。(それでも、近年松山市義士会訪れ赤穂義士祭が行われるなど赤穂市交流がある。)

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元禄赤穂事件

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水野忠之」の記事における「元禄赤穂事件」の解説

元禄14年1701年3月14日播磨赤穂藩浅野長矩高家吉良義央刃傷沙汰及んだときには赤穂藩鉄砲洲屋敷赴いて騒動取り静めにあたっている。 また翌年12月15日赤穂浪士吉良義央の首を挙げて幕府出頭した後には、そのうち間光興奥田行高矢頭教兼村松高直間瀬正辰茅野常成横川宗利三村包常神崎則休9名のお預かり命じられ、彼らを三田中屋敷預かった巷間では、「大石良雄預かった肥後熊本藩主細川綱利倣って浪士たちを賞賛しよくもてなした」と伝わっている。しかし、綱利が細川邸に入った後の浪士たちの元へすぐさま自ら赴いて大石たちと会見したに対して、忠之は21日になってようやく浪士たちと会見している。 また、忠之は赤穂義士使ってない長屋入れ、外から戸障子などを釘付けにした。「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」とあり、更に二重の囲い設け藩士昼夜問わず長屋内外巡回させた。「寒気強く候にて火鉢これを出さず」、布団増やせとの要求も「臥具増やす冪あり申せども、その儀及ばず初め儘に罷りあり」と冷遇し記録が残る。酒も出さずお預かりから暫くは体も洗わせなかった(『水野家御預記録』)。 その後2月4日幕命に従って目付久留正清使番赤井時尹の立会のもと、九士を切腹させた。 ただし、その後水野家では不幸が続き、忠辰から忠任の代には父祖伝来三百年にわたる故郷である三河から追われる水野騒動処罰転封虹の松原一揆などによる混乱藩主押し込め浪人町人による藩邸襲撃、それらに伴う屋敷移動で忠之時代遺構浪士切腹した畳二枚供養塔など)は散逸してしまい、現在は新たな水野家屋敷跡に、石灯篭(「降る石や 瓦飛び散る 水の家」 句があり、前屋敷襲撃されたのちに置かれたもの。)、二か国語案内板由来不明丸石木製ベンチが残る。

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元禄赤穂事件

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水間沾徳」の記事における「元禄赤穂事件」の解説

浅野天子様の勅使御馳走を削ろうとし(前回と同じ七百両で計算)、吉良反対にあい立腹したのが原因時代経過元禄改鋳による物価上昇)があるのに其れも読めず、三月十四日事件になった」という見解俳書記している。

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元禄赤穂事件

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田村建顕」の記事における「元禄赤穂事件」の解説

元禄14年1701年3月14日播磨国赤穂藩主・浅野長矩刃傷沙汰起こし即日切腹命じられた。この時、一関藩田村家事件後の長矩の身柄を預かるよう命じられ夕刻一関藩邸に長矩が護送されて来たが、それから一刻経たないうちに大目付庄田安利指示があり、藩邸の庭で浅野長矩切腹執行された。 対応が悪かった記録残っており、長矩は着用していた大紋脱がされ収容され座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。また庭先で筵の上切腹させる、介錯使おう田村家伝来由緒ある刀を家臣持ち出してきたので建顕が激怒した切腹した場所には今後誰も近づかないよう藩士厳命した、長矩の遺言隠したともいわれる藩邸には墓や供養塔の類は一切なかった(戦後になって藩邸跡に切腹した場所を示す「浅野内匠頭終焉の地」碑が建設されたが、現在は撤去されている)。

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