小山田庄左衛門とは? わかりやすく解説

小山田庄左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/28 03:26 UTC 版)

小山田 庄左衛門(おやまだ しょうざえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士赤穂藩浅野氏の家臣。

生涯

赤穂藩の江戸詰め藩士・小山田一閑の子として誕生。父の隠居後に家督を継ぎ、江戸詰め100石となる。

元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩江戸城にて高家吉良義央に対し刃傷におよび、赤穂藩が改易になると、大石良雄による仇討ちの盟約に早くから加わり、本所林町五丁目に堀部武庸と住んでいた。ところが、庄左衛門は酒と女におぼれ金に困っていた。その後、同志の片岡高房から金5両と小袖を盗んで逃亡した。元禄15年(1702年)12月15日の討ち入り後、詳細を知った父・一閑はこれを恥じて12月18日に切腹している[1]

享保6年(1721年)1月15日、深川万年町冬木店に住む中島隆碩という医者の夫妻が、下男の直助(権兵衛とも言われる)に殺害された事件が起こった。『享保通鑑』は中島隆碩が浅野長矩に仕えていたことを記しているため、これが小山田庄左衛門であるとしているが真相は不明である。

登場する作品

講談

脚注

  1. ^ 内海定治郎『赤穂義士事典』p365

小山田庄左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:57 UTC 版)

赤穂事件の人物一覧」の記事における「小山田庄左衛門」の解説

江戸詰100石。義盟に加わるが、四十七士一人である片岡五右衛門から小袖と金三両を盗んで逃亡した深川会議のあった元禄15年11月2日のことであった。酒が原因で金に困っていたという。

※この「小山田庄左衛門」の解説は、「赤穂事件の人物一覧」の解説の一部です。
「小山田庄左衛門」を含む「赤穂事件の人物一覧」の記事については、「赤穂事件の人物一覧」の概要を参照ください。

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