深川会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日に京を出て、11月5日に江戸に到着している。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという 。10月26日には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている。 このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、大石瀬左衛門は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし、磯貝十郎左衛門も家賃が2カ月も払えなかったという。大石は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった。 12月2日 頼母子講を装って深川八幡前の大茶屋に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた(深川会議)。
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