脱盟した元赤穂藩士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:57 UTC 版)
「赤穂事件の人物一覧」の記事における「脱盟した元赤穂藩士」の解説
高田郡兵衛 江戸詰200石15人扶持。 討ち入りに参加した堀部、奥田と同じ堀内道場の同門であったためか、江戸急進派の一人としてこの二人とともに行動し、吉良を討つよう大石に迫っていたにもかかわらず、脱盟した。父方の伯父が高田を養子にしたいと言ってきたのを断りきれず、仲介にたった高田の兄が仇討ちの事を伯父に話さざるを得なくなったからである。高田は堀部と相談し、伯父を納得させるために脱盟 。最初の脱盟者となった。元禄14年12月頃のことである 。 討ち入り後泉岳寺に向かう赤穂浪士達のもとに駆けつけたが、堀部以外の全員から無視された。その後酒を持って赤穂浪士のいる泉岳寺にも行ったが、赤穂浪士からは「踏み殺してやりたい」と罵られた。 萱野三平重実 中小姓近習12両2分3人扶持。刃傷事件の第一報を赤穂へもたらした。 義盟に加わるが、父が他家への仕官の口を見つけ、内諾をもらってしまう。板挟みになった三平は元禄15年1月14日、切腹で自害してしまった。 『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平のモデル。 橋本平左衛門 馬廻100石。義盟に加わるが、大阪で蜆川の茶屋淡路屋の遊女「はつ」に入れあげ、2人で心中してしまった。 2人の心中は元禄15年7月15日の事だとされるが、佐々小左衛門が早水藤左衛門にあてた手紙ではそれは11月の事だとある。 奥野将監定良 組頭1000石。義盟に加わり大石良雄を補佐したが、仇討ちを決定した円山会議の後、もう一度御家再興の嘆願をすべきだと主張して脱盟した。脱盟は大石が吉良を打ち洩らした際に備えた二番手だったという説もある。 進藤源四郎俊式 足軽頭400石。大石良雄の親類で義盟に加わるが、円山会議後に脱盟。大石は再考を求めたがこれを断った。 小山源五左衛門良師 足軽頭300石。大石良雄の親類で義盟に加わるが、円山会議後に脱盟。大石は再考を求めたがこれを断った。 なお小山は山科会議の際すでに消極的な姿勢を見せていたが、同時にその裏では堀部等急進派に同調するような書状も送っていた。それゆえ堀部等急進派は小山の事を信じ、大石をはずして小山を急進派の首領に担ぎあげようと画策していたが、山科会議での態度を見て堀部等急進派は激怒した。 また小山の娘ユウは、四十七士の一人である潮田又之丞のもとに嫁いでいたが、源五左衛門の脱盟により実家に返され、源五左衛門ともども又之丞から義絶された。 大石孫四郎信興 大石の親戚にあたる。円山会議には出席したものの、そのまま脱盟した。 実録物の『赤穂義士伝一夕話』では討ち入りと老母の世話とどちらをするか弟の大石瀬左衛門と籤を惹いたとあるが、史実ではそのようなことはなく、大石孫四郎は脱盟により四十七士の一人である弟の大石瀬左衛門から義絶されている。 岡本次郎左衛門重之 大阪留守居400石。円山会議後に脱盟。 多川九左衛門 持筒頭・足軽頭400石。開城にあたって大石の嘆願書を幕府目付に提出しようとするが、任を誤る。円山会議後に脱盟。 田中貞四郎 150石。浅野長矩の遺骸を引き取り埋葬した。片岡高房と行動を伴にする急進派。討ち入りを前に逐電した。酒色に溺れ身を持ち崩したとされる。病毒のため、顔まで変わっていたという。 小山田庄左衛門 江戸詰100石。義盟に加わるが、四十七士の一人である片岡源五右衛門から小袖と金三両を盗んで逃亡した。深川会議のあった元禄15年11月2日のことであった。酒が原因で金に困っていたという。 庄左衛門の父である一閑は、このことを知ると刃で胸元から背後の壁まで突き通して自害した。 渡辺半右衛門 四十七士の一人武林唯七の兄。は当初盟約に参加していたが、武林から自分に代わって両親の面倒を見てほしいと説得され、離脱している 中村清右衛門 年老いた母を置いて盟約に加わったが、(老母の世話を頼んでいる人物と思われる)太郎左衛門が自殺を考えていると聞き、半ば脅迫のような形で討ち入りを断念させられた 瀬尾孫左衛門 大石良雄の家臣。山科で江戸行きを止められて立腹し、江戸までついてきた。そして内蔵助の東下りに先行して瀬踏み役をしたり平間村の仮宿を斡旋したりする活躍があったが、逐電してしまう。 脱名は12月6日の事とされるが、『寺坂私記』によれば12日であり、これが事実なら通常「最後の脱盟者」とされる毛利小平太よりも後に脱盟したことになる。 一説には赤穂に戻り、剃髪して休真と号したという。 矢野伊助 瀬尾孫左衛門とともに脱盟。 毛利小平太 大納戸役20石5人扶持。義盟に加わり、さる大名の下男になりすまして吉良邸に潜入、敵情を報告するなど活躍したが、討ち入りの直前になって脱落。最後の脱盟者となった。 同志たちは毛利が本当に脱盟したのか分からず、討ち入り前日になっても大石は毛利を同志の一人として数えていたという。 脱盟の経緯が不明の為、小説や映画では様々な動機が創作されている。
※この「脱盟した元赤穂藩士」の解説は、「赤穂事件の人物一覧」の解説の一部です。
「脱盟した元赤穂藩士」を含む「赤穂事件の人物一覧」の記事については、「赤穂事件の人物一覧」の概要を参照ください。
- 脱盟した元赤穂藩士のページへのリンク