山科会議とは? わかりやすく解説

山科会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)

赤穂事件」の記事における「山科会議」の解説

元禄15年1702年正月9日原惣右衛門大高源五上洛大石内蔵助面会して堀部訴え伝えたその後京都周辺旧藩士らと会合重ねるが、上方勢は吉良上野介隠居を「是切(これきり)の事と覚悟」はしながらも、早急に討ち入り決行する方向へはまとまらなかった。大高は彼らの態度について「生煮え」と評し落胆している。この頃、原から堀部安兵衛充て上方勢の情勢報告では、討ち入り案への理解者として、小野寺幸右衛門岡野金右衛門大高源五潮田又之丞中村勘助岡嶋八十右衛門千馬三郎兵衛中村清右衛門中田平次矢頭右衛門七の名前を挙げている。 2月15日から数日間山科大石、原らが集まり今後行く末決め会議開かれた(山科会議)。この会議は、先立つ旧藩士間での会談内容色彩強く、「浅野大学処分待って事を起こす」という大石従来主張通ったまた、討ち入り期限としても、大石新たに設定した浅野内匠頭三回忌」(翌年3月)が通った。原らにとっても大石抜きで討ち入り必要な頭数揃えるめどが立たなかった以上、大石提案賛同するよりほかなかった。 山科会議での決定を受け、討ち入り案件は「大学処分待ち」となり、堀部急進派大石による御家再興運動見守ることになったこの頃大石は、大学閉門解かれたら、すぐさま大学討ち入り許可取りその上で吉良を討つことを考えていた。大石このような仇討ちこだわった理由は、事件当時仇討ち」というのは、親や兄などの目上親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである。しかし主君内匠頭の弟である大学指示によって上野介討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。だから大石は、大学無関係に討ち入りようとする堀部達の意見には賛同できなかった。後述するように、結局吉良邸討ち入り大学許可得ず行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ち概念を「父」から「君父」へと拡大している。こうした拡大され価値観武士社会へと受容される事で、赤穂事件武士の生き方道徳変え武士道概念体系化促し大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである4月に入ると堀部らは再び大石抜きで討ち入り模索し始める。4月2日の原の堀部宛書簡では、大石抜きで同志14,5人ほど集められるめどであると報告名指しされたのは原、堀部奥田武林唯七大高潮田中村岡野小野寺幸右衛門倉橋伝助田中貞四郎11人で、その他に3,4名ほど得られる目算であった思われる)、7月中には江戸へ下る予定であった大石が気にする大学への影響についても、大石に近いものを外して自分たちだけで討ち入りをしたら、大学に迷惑がかかることもないであろう、と推測したまた、大石討ち入り期限後ろ倒し賛同した一部同志名指し非難するなど、大石堀部両派の確執深まっていった。 大石重ねて自重呼びかけたが、堀部6月に入ると十人ほどでも討ち入る覚悟示し大学御家再興待って帰参する心積もり旧藩士らを「腰が立たない言語道断のものである切り捨てた6月末に堀部上洛して原、大高らと大石外し相談に及び、7月中に頭数揃えて江戸へと下る予定であった

※この「山科会議」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
「山科会議」を含む「赤穂事件」の記事については、「赤穂事件」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「山科会議」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山科会議」の関連用語

山科会議のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山科会議のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの赤穂事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS