山科会議
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翌元禄15年(1702年)正月9日、原惣右衛門と大高源五が上洛、大石内蔵助と面会して堀部の訴えを伝えた。その後も京都周辺の旧藩士らと会合を重ねるが、上方勢は吉良上野介の隠居を「是切(これきり)の事と覚悟」はしながらも、早急に討ち入りを決行する方向へはまとまらなかった。大高は彼らの態度について「生煮え」と評し、落胆している。この頃、原から堀部安兵衛へ充てた上方勢の情勢報告では、討ち入り案への理解者として、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、潮田又之丞、中村勘助、岡嶋八十右衛門、千馬三郎兵衛、中村清右衛門、中田理平次、矢頭右衛門七の名前を挙げている。 2月15日から数日間、山科に大石、原らが集まり、今後の行く末を決める会議が開かれた(山科会議)。この会議は、先立つ旧藩士間での会談内容の色彩が強く、「浅野大学の処分を待って事を起こす」という大石の従来の主張が通った。また、討ち入り期限としても、大石が新たに設定した「浅野内匠頭の三回忌」(翌年3月)が通った。原らにとっても、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃えるめどが立たなかった以上、大石の提案に賛同するよりほかなかった。 山科会議での決定を受け、討ち入り案件は「大学の処分待ち」となり、堀部ら急進派は大石による御家再興の運動を見守ることになった。この頃の大石は、大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良を討つことを考えていた。大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである。しかし主君・内匠頭の弟である大学の指示によって上野介を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。だから大石は、大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった。後述するように、結局吉良邸討ち入りは大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している。こうした拡大された価値観が武士社会へと受容される事で、赤穂事件は武士の生き方と道徳を変え、武士道概念の体系化を促し、大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである。 4月に入ると堀部らは再び大石抜きでの討ち入りを模索し始める。4月2日の原の堀部宛書簡では、大石抜きでも同志は14,5人ほど集められるめどであると報告(名指しされたのは原、堀部、奥田、武林唯七、大高、潮田、中村、岡野、小野寺幸右衛門、倉橋伝助、田中貞四郎の11人で、その他に3,4名ほど得られる目算であったと思われる)、7月中には江戸へ下る予定であった。大石が気にする大学への影響についても、大石に近いものを外して自分たちだけで討ち入りをしたら、大学に迷惑がかかることもないであろう、と推測した。また、大石の討ち入り期限の後ろ倒しに賛同した一部同志を名指しで非難するなど、大石・堀部両派の確執が深まっていった。 大石は重ねて自重を呼びかけたが、堀部は6月に入ると十人ほどでも討ち入る覚悟を示し、大学の御家再興を待って帰参する心積もりの旧藩士らを「腰が立たない」言語道断のものであると切り捨てた。6月末に堀部は上洛して原、大高らと大石外しの相談に及び、7月中に頭数を揃えて江戸へと下る予定であった。
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