三宅尚斎とは? わかりやすく解説

みやけ‐しょうさい〔‐シヤウサイ〕【三宅尚斎】

読み方:みやけしょうさい

[1662〜1741]江戸中期儒学者播磨(はりま)の人。名は重固。山崎闇斎学び佐藤直方浅見絅斎(あさみけいさい)と並んで崎門(きもん)三傑一人称された。のち、京都私塾開いて多く門人擁した。著「黙識録」など。


みやけしょうさい 【三宅尚斎】

江戸中期儒学者播磨の人。名は重固。山崎闇斎門に入り崎門三傑一人武蔵忍藩主に仕えた直諫したため幽閉。のち許され京都で開塾。著『黙識録』他。(一六六二~一七四一

三宅尚斎

読み方みやけ しょうさい

江戸中期儒者播磨明石生。名は重固、八郎・儀左衛門丹治通称する。晩年山崎闇斎に学ぶ。著書は『黙識録』『祭祀来格説』『為学要説』等多数元文6年(1741)歿、80才。

三宅尚斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 13:11 UTC 版)

三宅 尚斎(みやけ しょうさい、寛文2年1月4日1662年2月22日) - 元文6年1月29日1741年3月16日))は、江戸時代前期の儒学者。名は重固。小字は儀左衛門、後に丹治と改める。佐藤直方浅見絅斎と共に山崎闇斎門の三傑と称せられる。

生涯

丹波篠山藩家臣・平出重直の第3子として播磨に生まれる。幼い頃は平出家に養子として入った父の意向に従い医術を学ぶ。17歳の頃に父を失い、19歳に山崎闇斎の門に入り、儒学を修める。姓を「三宅」に復したのはこの時である。元禄2年(1689年)に江戸に来て、翌年には武蔵忍藩阿部正武に仕える。10年間忠実に勤め、しばしば主君を諫めたが、その意見が聞かれないので病と称して3回致仕を願い出る。

宝永4年(1707年)に忍城に幽閉される。友人である三輪執斎細井広沢が赦免を請うが許されず、3年後に5代将軍徳川綱吉の逝去による大赦にあい放免された。宝永7年(1710年)、京都に行き儒学を教え始める。享保18年(1733年)、中国の小学・大学にならい、培根堂・達支堂を設ける。諸侯に頼まれて講説することも多く、特に土佐藩には世子の賓師として迎えられた。墓所は京都市金戒光明寺

門下に久米訂斎・井沢灌園・石王塞軒・多田東渓・留守希斎・蘆野東山蟹養斎・玉田黙斎・菅野兼山・山宮雪楼など。

学問

尚斎の学問は朱子学の遵守にあり、それほど独創性はない。同門の三輪執斎が王陽明三宅石庵陸象山玉木葦斎が神道に影響されていたのを批判したが、交友を絶たず温厚の長者として重んじられた。しかし尚斎は易にもとづく占筮を得意とし、独自の神秘説を持っていたことがうかがえる。

著作

  • 『狼疐録(ろうちろく)』3巻
  • 『默識録』
  • 『氏族弁証附録』
  • 『同姓為後称呼説』
  • 『尚斎語録』

参考文献

  • 伴蒿蹊『近世畸人伝』巻2
  • 原念斎『先哲叢談』巻の5



三宅尚斎と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三宅尚斎」の関連用語



3
浅見絅斎 デジタル大辞泉
90% |||||


5
三宅 デジタル大辞泉
74% |||||


7
32% |||||


9
18% |||||

10
18% |||||

三宅尚斎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三宅尚斎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三宅尚斎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS