市河寛斎とは? わかりやすく解説

いちかわ‐かんさい〔いちかはクワンサイ〕【市河寛斎】

読み方:いちかわかんさい

[1749〜1820江戸後期儒学者漢詩人上野(こうずけ)の人。名は世寧、字(あざな)は子静。昌平坂学問所学び富山藩教授となった。著「日本詩紀」「全唐詩逸」など。


市河寛斎

読み方いちかわ かんさい

江戸中・後期漢詩人上野生。市河蘭台の子市河米庵の父。名は世寧、字を子静・嘉祥別号に半江・江湖詩老等。初め蘭台につき、ついで、関窓、大内熊耳に学ぶ。昌平黌しょうへいこう)の学員長となり、天明7年には江湖詩社設立柏木如亭菊池五山教え写実的な新詩風を確立した越中富山藩藩校広徳館の教授務めた細川平洲井上金峨交流も広い。著書に『日本詩紀』などがある。文政3年1820)歿、72才。

市河寛斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/16 02:12 UTC 版)

市河寛斎(『寛斎先生遺稿』)

市河 寛斎(いちかわ かんさい、寛延2年6月16日1749年7月29日[1][2] - 文政3年7月10日1820年8月18日[1][2])は、江戸時代儒学者漢詩人。名は世寧[2]、通称は小左衛門[2][3][3]、字は子静[2]、嘉祥。号は寛斎、半江、江湖詩老など[2]。岳父に多胡碑を紹介した書家の高橋道斎、子に幕末の三筆市河米庵、画家の鏑木雲潭らがいる。

概説

市河家は清和源氏に連なり、甲斐武田氏の庶流にあたるとされる[4]。市河家は上野国甘楽郡(現在の群馬県)で帰農していたが、寛斎の父・好謙(蘭台)が山瀬家の養子となって館林藩秋元氏に仕えた[2][4][5][3]

寛斎は山瀬好謙の次男として寛延2年(1749年)6月16日、江戸に生まれた[4]。当初は山瀬新平を名乗り、兄・一英とともに館林藩に仕官した[2][4][3]。寛斎は安永4年(1775年)に館林藩を脱藩し[2]、甘楽郡に移って祖父・市河小左衛門の名乗りを継いだ[2][3]。下仁田の書家・学者の高橋道斎の養女の婿となったが、翌年に離縁し江戸に出た[1][2]。その後に生まれた子が克順であるとされている[4]

同年11月、関松窓の紹介で林家に入門する[2]天明3年(1783年)林家の私塾・昌平黌の学頭の地位に就いたが[2]、天明7年(1787年)10月に病気を理由に退いた[2][3][4]。この時期に江湖詩社を結成し、大窪詩仏柏木如亭菊池五山らに漢詩を指導した[2][6]寛政2年(1790年)に寛政異学の禁を批判したため昌平黌を追われ[2][注釈 1]、寛政3年(1791年)から文化8年(1811年)まで富山藩藩校広徳館の教授となった[2]。文化8年(1811年)富山藩を致仕し、家督を市河米庵に譲った[2]。この頃、掛川藩世子の侍講も務めたほか[8]、文化10年(1813年)には長崎奉行牧野成傑に招かれて長崎に1年間滞在している[2][4]。寛斎・詩仏・如亭・五山は「今四家」と呼ばれ、文化12年(1815年)には『今四家絶句』が出版された[1]

文政3年(1820年)7月10日、江戸で死去[1]。戒名は「文安院寛斎日長居士」[4]。墓所は荒川区西日暮里本行寺にあり、東京都旧跡に指定されている[9]

詩風は当初、古文辞格調派の詩風だったが、江湖詩社結成後は白楽天杜牧の詩風へ移り、晩年は陸放翁の詩風を尊んだ[2]

著書

  • 『詩家法語』天明2年(1782年)刊[4]
  • 『古五絶』
  • 『北里歌』
  • 『日本詩紀』 - 日本の奈良時代から平安時代末までの漢詩約3,800首を集めて作者別に編成した詩集で、目録1巻、本集50巻、別巻1巻、外集1巻より構成される。
  • 『寛斎摘草』
  • 『帝範』
  • 『寛斎百絶』
  • 全唐詩逸』文化元年(1804年)刊 - 康熙帝の勅撰漢詩集で唐代全部の詩を収録したとされる『全唐詩』から遺漏したものを集めて出版したもので、これは、当時の中国の学者をおおいに驚かせている。上野国群馬郡西明屋(現・高崎市)の下田漆園(連蔵)の財政面での支援によって出版が実現した[3]
  • 『傲貝詩』文化2年(1805年)刊
  • 『金石私志』
  • 『三家妙絶』 - 宋の范石湖楊誠斎陸放翁の詩を集めた
  • 『随園詩鈔』
  • 『芥園瑣録』
  • 『談唐詩選』
  • 『上野志料』 - 上野国の歴史資料を集めたもの。寛斎の死後、米庵によって昌平黌に寄贈され、現在は内閣文庫に収められている[4][3]

脚注

注釈

  1. ^ 異学の書を読んだために月俸の半分を削られた旨の手紙がある[7]

出典

  1. ^ a b c d e 徳田武日野龍夫揖斐高編『江戸詩人選集第5巻 市河寛斎・大窪詩仏』岩波書店、1990年7月、383-384頁。ISBN 4000915959 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第1巻』岩波書店、1983年10月、160-170頁。 
  3. ^ a b c d e f g h 群馬県史編さん委員会 1992, pp. 330–331.
  4. ^ a b c d e f g h i j 井田金次郎 編「市川寛斉」『上毛書家列伝』 下、みやま文庫、1984年3月30日、73-90頁。doi:10.11501/12428512 (要登録)
  5. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 市河蘭台
  6. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 市河寛斎
  7. ^ 群馬県史編さん委員会 1992, pp. 434–435.
  8. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)
  9. ^ 荒川ゆうネットアーカイブ > 史跡・名所(日暮里) > 日暮里(写真解説)”. www.city.arakawa.tokyo.jp. 2024年10月4日閲覧。

参考文献

  • 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 通史編6 近世3、群馬県、1992年1月28日。doi:10.11501/9644587 (要登録)

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