牧野成傑とは? わかりやすく解説

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牧野成傑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/21 13:11 UTC 版)

 
牧野成傑
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和6年(1769年
死没 文政6年9月3日1823年10月6日[1]
改名 成久(初名)→成傑
別名 多門、内匠、主計、靫負
官位 従五位下内匠頭大和守若狭守
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 形原松平家牧野氏
父母 父:松平信直、母:松平光雄の娘
養父:牧野資成
兄弟 松平信道、松平信愛、戸田光弘、
巨勢利和成傑、松平直温、彦坂重教、松平直義、松平貞幹、松平勝全正室、
溝口直舊正室、太田資承正室
前室:牧野資成娘
後室:牧野則成
牧野成綱
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牧野 成傑(まきの しげたけ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本通称は多門、内匠、主計、靫負。官位従五位下内匠頭大和守若狭守。采地は2500石。  

略歴

丹波亀山藩主・松平信直の五男として誕生した。牧野資成の婿養子となる(後妻は牧野則成の娘)。初名は成久。

安永3年(1780年)遺領を継いだ。天明8年(1788年)4月西丸書院番士となり、12月中奥番士となる。寛政10年(1798年)1月使番となり、12月に布衣を着ることを許された。享和元年(1801年)4月に火事場見廻役を兼任し、6月より駿府町奉行を務め、文化3年(1806年京都西町奉行となる。文化8年(1811年作事奉行となり、文化10年(1813年長崎奉行となり、文化12年(1815年新番頭となった。文政4年(1821年)に小普請に入り、文政6年(1823年)に死去した[1]

脚注

  1. ^ a b 『寛政譜以降旗本家百科事典 第5巻』東洋書林、1998年、p.2500。

参考文献




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