巨勢利和
巨勢利和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/21 14:12 UTC 版)
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和4年6月20日(1767年7月15日) |
死没 | 文政8年3月27日(1825年5月14日)[1][注釈 1] |
別名 | 通称:幸十郎、縫殿助、六左衛門、号:椿園[3] |
官位 | 従五位下、日向守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
氏族 | 形原松平家→巨勢氏 |
父母 |
父:松平信直、母:松平光雄の娘 養父:巨勢至親 |
兄弟 |
松平信道、松平信愛、戸田光弘、利和、牧野成傑、松平直温、彦坂重教、 松平直義、松平貞幹、松平勝全正室、 溝口直舊正室、太田資承正室 |
妻 | 巨勢至親の養女(巨勢至方の娘) |
巨勢 利和(こせ としまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本・国学者・歌人。丹波亀山藩2代藩主・松平信直の四男。諱は「としより」とも読む。
略歴
明和4年(1767年)、誕生。巨勢至親の養子となり、天明6年(1786年)に至親が没したため家督を継承した。
寛政元年(1789年)に使番となり、寛政4年(1792年)より火事場見廻役を兼ねる。寛政7年(1795年)に小普請組となり、寛政8年(1796年)に小姓組の番頭に転任、従五位下日向守に叙任。寛政10年(1798年)に西ノ丸書院番の番頭となり[4]、大番頭を経て、文化6年(1809年)西ノ丸側衆となった[5]。加藤千蔭や清水浜臣の元で学んで歌道を習熟し、千蔭の著作の序文を認めるなどしている。浜臣の覚えは良かったらしく、彼の死後、蔵書の管理を委任された。また『うつほ物語』の考究を推進し、『新治抄』10巻を認めるなどの業績を残している。
脚注
注釈
出典
関連文献
- 『江戸文人辞典』(東京堂出版)
固有名詞の分類
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