田捨女とは? わかりやすく解説

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でん‐すてじょ〔‐すてヂヨ〕【田捨女】

読み方:でんすてじょ

[1633〜1698]江戸前期女流俳人丹波の人。父は郡の代官北村季吟和歌俳諧学んだ夫の死後剃髪し貞閑と名のって参禅


田捨女

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/02 01:56 UTC 版)

田捨女
柏原陣屋跡に建つ田捨女像
誕生 1634年
日本兵庫県丹波市柏原町
死没 1698年9月13日
日本・兵庫県姫路市
墓地 龍門寺(兵庫県姫路市網干区浜田)
職業 俳人歌人
言語 日本語
国籍 日本
ジャンル 俳句短歌
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田 捨女または、田 ステ女(でん すてじょ/すてめ、1634年寛永11年) – 1698年9月13日元禄11年8月10日))は、江戸時代歌人俳人貞門派の女流六歌仙(六俳仙)の1人。

氏名は田ステで、「女」は名の一部ではなく女流歌人の名に添える接尾辞である。法名は貞閑で、貞閑尼とも呼ぶ。

経歴

歌川国貞「古今名婦伝」『柏原の捨女』(1861年・文久1年)

田捨女は1634年(寛永11年)、丹波国氷上郡柏原藩(現在の兵庫県丹波市柏原地域、当時の藩主は織田信勝)に、柏原藩の庄屋で代官も務めた田季繁の娘として誕生した[1]

6歳のとき

雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡

という俳句を詠んだという[1]。ただし、この句は伴蒿蹊『続近世畸人伝』(1798年(寛政10年)刊)以降の文献にしか見られず、捨女の貞門派の句風とも合致しないため、幼少時の捨女作とは考えにくいとする説もある[2]

後に北村季吟に師事。1674年延宝2年)夫が死去、1681年天和元年)落飾して妙融と号した[1]。この頃にはすでに貞門女流六歌仙の1人として著名であった。

その後子供らの独立を見届けた後、京都で俳諧・仏道などの修行を重ねた後、1688年(元禄元年)播磨国天徳山龍門寺の傍らに「不徹庵」という庵を構え[1]、貞閑と改名。その地で後進の指導に当たった。

1698年(元禄11年)8月10日、65歳で死去[1]。龍門寺に葬られ、現在も捨女の墓がある。

死後

JR柏原駅前と田ステ女記念館横に石像がある[3]1997年平成9年)、丹波市立柏原歴史民俗資料館に田ステ女記念館が増設された[4]。捨女の名を冠した俳句のイベントが定期的に開催されるなど[5][6]、地元での認知度は高い。

子孫に財界人田艇吉枢密院顧問官や閣僚を歴任した男爵田健治郎参議院議員田英夫らがいる。

脚注

  1. ^ a b c d e 捨女を読む会編『捨女句集』和泉書院、2016年5月、134-135頁。 
  2. ^ 捨女を読む会編『捨女句集』和泉書院、2016年5月、144-146頁。 
  3. ^ 【観る・遊ぶ】丹波市観光協会”. www.tambacity-kankou.jp. 2021年2月19日閲覧。
  4. ^ 丹波市立柏原歴史民俗資料館・田ステ女記念館 - 丹波市ホームページ”. www.city.tamba.lg.jp. 2021年2月19日閲覧。
  5. ^ ステ女思い句ひねる 田ステ女俳句ラリー | 丹波新聞”. 丹波新聞. 2021年2月19日閲覧。
  6. ^ 田ステ女俳句ラリー 「句碑の庭」が完成 選者直筆の碑据える | 丹波新聞”. 丹波新聞. 2021年2月19日閲覧。

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