柳沢安吉とは? わかりやすく解説

柳沢安吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/11 09:47 UTC 版)

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柳沢安吉
時代 江戸時代前期
生誕 文禄4年(1595年
死没 貞享3年閏3月6日1686年4月28日
別名 信文、孫左衛門(通称
戒名 桃林院殿沢翁孫柳居士
墓所 月桂寺
幕府 江戸幕府富士見宝蔵番、三丸番、西丸広敷番頭本丸広敷番頭
主君 徳川秀忠忠長家綱
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢信俊、母:石原昌明の娘
兄弟 安吉安忠
窪嶋孫兵衛の娘
信安吉次、安冶、信花
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柳沢 安吉(やなぎさわ やすよし)は、江戸時代初期の江戸幕府旗本柳沢信俊の三男。母は石原昌明の娘。通称は信文、のち孫左衛門。子に柳沢信安柳沢吉次、柳沢安冶、柳沢信花らがいる。妻は窪嶋孫兵衛の娘。

安吉の致仕後、長男の信安がすでに没していたため、孫の時憲が家督を継いだ。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の元で側用人として活躍した柳沢吉保は、弟・安忠の子である。

略歴

※日付は旧暦

  • 慶長18年(1613年) - 将軍徳川秀忠に初御目見え。160石を与えられる
  • 慶長19年(1614年) - 大坂冬の陣に供奉。その最中に父・信俊が病死したため帰還後、家督相続(230石)。先に得た160石は弟安忠に与える
  • 元和8年(1622年) - 徳川忠長に仕える。忠長改易の後は浪人となる
  • 寛永17年(1640年) - 幕府に再出仕を命じられ、富士見宝蔵番となる
  • 寛永18年(1641年)11月15日 - 知行地を下総国匝瑳郡に移される
  • 寛永20年(1643年)8月31日 - 竹千代(のちの将軍徳川家綱)付きとなり、三丸番を務める
  • 寛永20年(1643年)12月18日 - 知行230石を蔵米230俵に改められる
  • 慶安3年(1650年)8月23日 - 西丸広敷番頭となる。のち本丸に異動
  • 万治2年(1659年)12月24日 - 200俵加増される(都合430俵)
  • 寛文6年(1666年)3月24日 - 高齢のため辞職。寄合となる
  • 貞享2年(1685年)7月11日 - 致仕。同日、孫の時憲が家督を継ぐ
  • 貞享3年(1686年)閏3月6日 - 死去。享年92。月桂寺に葬られる。法名、桃林院殿沢翁孫柳居士

参考文献





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