牧野成定とは? わかりやすく解説

牧野成定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 00:11 UTC 版)

牧野 成定(まきの なりさだ)は、戦国時代武将三河国宝飯郡牛久保城主。牛久保城主牧野貞成(右馬允・民部丞)の養子となり、牛久保城主を継ぐ。牧野保成(出羽守)の義理の甥。実は牧野氏成(新九郎)の子(寛政重修諸家譜)。初代の越後長岡藩主・牧野忠成の祖父にあたる。 通称(仮名)は新次郎、右馬允、民部丞とも称したという[1]


  1. ^ 通称は新次郎、右馬允、民部丞が伝えられているが、現在知られる、彼の生存期間中(1525~1566)の古文書(同時代文書)には新次郎と記すものは未見であり、右馬允については天文22年(1553)の大恩寺阿弥陀堂棟札の牧野右馬允がもっとも古く(但しこれに続く実名は成守のため養父貞成の可能性もある)、永禄9年(1566)11月の水野信元が牛久保寄騎6人に宛てた牧野康成家督相続承認の副え状に「今度牧野右馬允殿就死去」とあるのが終見であり、本人がこの時点で死亡していることから、成定が生存中に民部丞を称した可能性は極めて低く、牧野民部丞と記された天文期から永禄期の古文書は祖父成勝(天文5年(1536)11月15日若宮八幡宮寄進状までか)、または父貞成(永禄5年(1562)8月死去の可能性がある)のものとすべきである。
  2. ^ 永禄9年、家康権力の三河支配が一応の成立後に家康の徳川改姓・従五位下三河守任官が行われた→参考文献の8、112頁。
  3. ^ 筆者・新行紀一によれば、弘治2年(1556年)2月、牛久保・牧野民部丞が義元に反き、「民部丞は所領を没収され追放」と推定。→参考文献の2、800頁「弘治合戦」。
  4. ^ 参考文献の5、国会図書館請求No.118-191。
  5. ^ 下記参考文献の4、『今川氏と観泉寺』 567 - 568頁(東条松平文書・37)「弘治二年九月四日今川義元感状(…去三月、織田上総介荒河江相動之処、於野馬原遂一戦…」により「牧野家譜」にも記述される、反織田方である荒川氏居城八面山(荒川山)城を含む西尾城付近で織田軍対今川軍の戦闘が行われたことが判る(但し、『岡崎市史』ではこの戦闘を安城市野寺付近としている)。
  6. ^ 新行紀一は吉良義昭の織田信長への内通と対今川氏の反乱は弘治2年4月であると指摘している。→参考文献の2、800頁。
  7. ^ 天文18年、吉良義安は今川方に降伏し駿河に移されたが、弟・義昭はなお西条城に居たとする。→参考文献の2、799頁
  8. ^ 吉良義昭の西条城から東条城への移居および牧野新次郎(成定)の西条城入城は弘治2年(1556年)4月の降伏後に今川氏の差配とする。
  9. ^ 「牧野新次郎も、こらえ切れずに、城を明け渡して、牛久保へ逃亡する」(『三河物語』)。
  10. ^ このときの困難な戦いを真木氏は、槙文書として、伝えているが、(戦後、稲垣重宗は今川氏真に謀反の嫌疑を受けるが、成定が重宗に誓紙を書かせた上で逆にその忠節を訴えて弁護した。それにより氏真は了承し一転恩賞を出す一幕もあった)。
  11. ^ (永禄5年8月7日付稲垣重宗宛今川氏真感状「去年五月廿八日富永口へ各相動き引退き候刻・・・」(『岡崎市史6・資料編』所収)。この時牧野成定の家臣は稲垣重宗が高名し今川氏真の感状を受けた。後に越後長岡藩士となった、稲垣重宗等牛久保衆の末裔たちは、先祖の功績として、この富永口戦功をあげている者が少なからず存在する。なお富永という地名は存在するが、富永口合戦の場所を設楽郡新城市野田)の野田城近くや、野田城そのものとする説などもあり、合戦があった所在地は諸説があって断定できない。
  12. ^ また永禄4年(1561年)7月に、今川氏真が、西郡在番を命じたが、稲垣重宗の弟・稲垣氏連(林四郎)等4-5名が牛久保を退き、元康(=家康)の下に属したため、牧野成定が隠居を決意したとする説(『岡崎市史 2』(中世編)、819頁→参考文献の2)もあるが、成定はその翌年も「富永在番」・「三州八幡合戦」などに今川方として奮戦している(以下、永禄5年の項を参照)。
  13. ^ 永禄5年8月7日付け稲垣重宗宛今川氏真感状に「去る二月三州出馬の砌…(略)…」(『岡崎市史6・資料編』所収)と氏真自身の出馬を示す内容がある。これは、父義元の戦死後の混乱収拾に努めていた今川氏真が、永禄5年(1562年)2月に自ら1万余の今川勢を率いて東三河に発向したが、このとき氏真は三浦義鎮(右衛門大夫・右衛門佐)に兵を分かち、これを稲垣重宗が案内しておこなった富永(設楽郡)攻めの際の感状である。 『寛政重修諸家譜』(巻第684)によれば、一方の氏真本隊は本多信俊(百助)以下の松平兵約600が籠もる、宝飯郡の一宮砦(豊川市一宮町)を包囲したが、本多信俊救援に自ら出陣した松平元康と牛久保領内であった宝飯郡一宮および本野原において直接対決して大敗・退却した。この合戦を永禄7年(1564年)6月以降とし本野原では氏真から8千の兵を託された武田信虎が戦ったとするが(参考文献の4、236頁・本多信俊の項)、『新編 岡崎市史2』の筆者・新行紀一は、氏真の東三河出陣を永禄5年(1562年)2月、駿府への帰陣は同年6月で駿府で武田信虎の謀反の噂があったためとする(→参考文献の2、821-822頁)。
  14. ^ 同じ永禄5年8月7日付稲垣重宗宛の別の今川氏真感状に「去五月七日、牧野右馬允富永在番の刻、敵相動くの処、右馬允自身、刀切ら令む・・・」(前掲『新編 岡崎市史6』 所収、「牧野文書6」)の文言がある。これは、前掲感状では今川軍の富永攻略は成功し、そのあと牧野成定が富永を在番していたのを今度は松平方が攻めた際のものと推定される。
  15. ^ 「牧野家譜」・「牧野家御略譜」(『長岡市史叢書35』)による。ただし、この戦いを永禄4年の出来事として記す。
  16. ^ 成定の牛久保帰城→参考文献の2、821頁、なお、富永における今川・松平両勢の攻防関連の古文書は参考文献の3、1066-1067頁(「牧野文書5・6・7」)
  17. ^ 稲垣半六郎(氏俊)→参考文献の1、389頁(「寛政重修諸家譜」清和源氏支流稲垣氏の項)。
  18. ^ 参考文献の2、822頁。
  19. ^ 松平元康の牛久保攻め→参考文献の2、822頁。
  20. ^ この年、西三河で勃発した三河一向一揆によって松平家康は危機に瀕するが、今川氏真も西遠で曳馬城主の飯尾豊前守連龍から反乱を起こされていた。これには三浦正俊に託した大規模な征伐軍を動員し対応するが、犠牲を払いながら攻略に失敗。しかも、この手並みの悪さが拍車を掛けた不穏な情勢は西遠一帯に広まってしまう。遠州の宇津山城朝比奈直次(孫六郎。本来の表記は眞次か)、飯尾連竜の縁戚である二俣城主松井宗親等の今川方重臣が相次いで反乱を起している状況であった。この西遠鎮定に忙殺されていた氏真は、せっかくの逆転の機会を逸している。むろん牛久保城への後詰めも不可能であった。
  21. ^ 出典→参考文献の1、266頁、「寛政重修諸家譜」巻364・牧野成定の項及び同書389頁・巻384・稲垣長茂の項。参考文献の3、「牧野文書12(松平家康判物)」による。
  22. ^ 参考文献の9、「牛窪記・巻之下」、253-254頁。
  23. ^ 牛窪密談記』や『牛窪記』『改正三河後風土記』の永禄8年(1563年)に徳川家康に牧野成定(右馬允)が属した(あるいは家康に謁見した)との記述は、「寛政重修諸家譜」巻364・牧野成定の項、および同・巻384・稲垣長茂の項(参考文献の1)の永禄9年5月に成定が岡崎に参向・帰属したという記述とは矛盾する。また、参考文献の10、稲川明雄論文「長岡藩筆頭家老稲垣氏の系譜」では「稲垣氏家譜録」引用文において、永禄8年に稲垣長茂等の牛久保寄騎衆が家康に召されたときに、岡崎に宅地を賜ったとの内容や同年4月には長茂の父・重宗が成定に諫言を奉じたとの記述もある。
  24. ^ その一方、『牧野家家譜』(下記参考文献の5)では、永禄9年に成定が城の前後に敵(岡崎勢)を控えた中、今川氏真に援軍要請の書簡を送ったが氏真から手勢が少なく後詰めが困難との返事を受けたのをきっかけに、5月9日の岡崎参向を決めた有り様が記述されている。「…永禄九丙寅の年、右馬允成定前後に敵を受て防戦の術、心の如くならず。因て氏真に後詰めを乞ふ…氏真の答云、…牛久保ばかり今に別心なきの条祝着の至也。去ながら駿州無勢なれバ面目なく候へ共、後詰ハ成がたきのよし申越る。…」(下記参考文献の6、10 - 11頁、「御家譜、自成勝公・至忠雅公」よりの筆者今泉の引用文を一部抜粋)。これらの記述から、永禄8年(1563年)丑の謁見は、家康の仰せを受けた牛久保六騎の寄騎衆のもので、これを踏まえて城主・牧野成定自身の家康謁見が翌年5月に実現されたといえる。
  25. ^ 出典→『新編岡崎市史・史料編6』、所収「牧野文書13、水野信元書状」(原文書、「水野信元書状」(国立公文書館蔵)、および参考文献の6『長岡の歴史・第1巻』、12-14頁の記述。
  26. ^ この異説については郷土史研究家の大島信雄が、「越後長岡と東三河」(『東日新聞』H15/06/24-26)のうち、第177話「保成謀殺説の系譜」に牛久保上善寺の「上善寺由緒記」・「牛久保長山記」・「朝野旧聞裒藁」の記述を挙げてこれを解説している。


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