牧野筑意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:31 UTC 版)
牧野筑意は牛久保城主牧野右馬允の分かれといい、照山城を居城としたというが、当初の照山城は城ではなくその隠棲の屋敷であったらしい(城趾・居館跡の項参照)。嫡子伝太夫もこれを継ぎ牛久保牧野家に付属したが、その子・弥次兵衛尉成政は松平元康(徳川家康)の永禄4年4月の牛久保城攻めの際、徳川方に帰属して八名郡の国人領主西郷正勝に与力して、牛久保牧野家の当主・牧野成定には敵対した。 正勝戦死のあとも家康の命により西郷氏後嗣に合力・補佐したが元亀2年(1571年)武田軍が東三河を攻めた際、豊川東岸の八名郡崇山八丁木縄手(豊橋市)で武田方の紫母衣武者と槍合わせの末に成政は戦死した。 成政の嫡子成勝(弥次兵衛)は、その後も西郷家に客分として残留した。しかし西郷家が所替え(下総国生実5千石)になった際、家臣化されるのを嫌い、牛久保牧野家の牧野成定から家督を相続した牧野右馬允(康成)が上州大胡城主(2万石)になったのを機に同族の誼みでこれに付属、のち家臣となった(後の長岡藩士牧野弥次兵衛家)。この時、長男成義(次郎兵衛)のみ西郷家に残したが、成義は家康上洛の節に伏見で徳川頼宣付きに召し出された(「名臣伝」『南紀徳川史』)。
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