西郷氏
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西郷氏(さいごうし)は、日本の姓氏。「西郷」という全国各地に所在する地名を名字とした典型的な地名姓であり、複数の家系の武家が歴史に名を残している。
概要
中世に荘園公領制が成立すると、それまで令制国のもとに郡があり、その下に郷があるという地方行政組織が再編され、令制国の中に国衙に並列的に直結する郡、郷、保、院、条、別名などといった公領と、荘園領主の支配下にある荘園が割拠する状況が現出した。この状況下で全国各地に国衙領(公領)として「西郷」[1]が数多く成立した。この「西郷」を郷司として支配し、名字の地とした武士が、各地の西郷氏の由来である。
武家として名を残した西郷氏の中では、室町時代の九州北部で勢力を振るった肥前伊佐早荘(後の諫早)の西郷氏が歴史の古い名族として知られる。こちらは、肥前高来郡の国衙領部分が高来東郷と高来西郷に再編された内の後者を出自としており、戦国時代には、より西にある伊佐早荘(後の諫早市と北高来郡に相当)を支配し、大永年間の西郷弾正小弼藤原尚善より記録が確認できる。西郷尚善は有馬貴純の傘下で活動し、次代は有馬晴純の弟の純久が養子となって家を継いだ。西郷純久は享禄・天文年間に有馬晴純の副将格として活動したが、天正年間に活動した子の西郷純堯は、有馬当主の有馬義貞や西郷家と同様に有馬より養子に入って同盟関係にあった大村純忠がキリシタン大名となると離反し、後藤貴明、松浦氏と同盟して大村、長崎に侵攻した。純尭は龍造寺隆信に降ったが、次代を継いだ子の西郷信尚は豊臣秀吉の九州征伐に参陣せず不興を買ったため、秀吉の命を受けた柳川城主である佐賀の龍造寺家晴(近世諫早氏の祖)に侵攻され、所領を奪われて島原に逃れたが、その後平戸に移住して子孫は松浦の家臣となった。 菊池氏流の西郷氏は、和氏や大内氏と同じ、百済の第25代王・武寧王の流れを汲む、百済系渡来氏族とする系譜が存在する。
江戸時代には、その一族を称する家の中からいくつか著名な家が出た。三河の国人領主から徳川家康に仕えて1万石の譜代大名(安房国東条藩主→下野上田藩主→減封→旗本)だった三河西郷氏や、その分家にあたる陸奥国会津藩家老家。肥前西郷氏から古い時代に分かれて薩摩藩の下級藩士になり西郷隆盛・従道兄弟を出した薩摩西郷氏などが挙げられる。
明治時代には薩摩西郷氏から西郷従道の家と、西郷隆盛の息子西郷寅太郎の家が、隆盛と従道の勲功によって、それぞれ華族の侯爵家に列せられた(両家の詳細については、西郷隆盛家、西郷従道家を参照)[2]。
菊池氏流の西郷氏
肥前西郷氏
肥前西郷氏は菊池氏の一族とされ、その菊池氏は藤原北家の藤原隆家流を称した。このため、肥前西郷氏の流れを汲むとされる西郷氏は、いずれも本姓を藤原氏と称し、鷹の羽を家紋としている。また、綾部氏系図より、大治年間に肥前権守として下向した藤原幸道の次男西郷次郎藤原道秀に由来するとする説もある。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
菊池能隆 | |||||||||||||||||||||
西郷隆政 | |||||||||||||||||||||
政朝 | |||||||||||||||||||||
(数代略) | |||||||||||||||||||||
幸朝 | |||||||||||||||||||||
(数代略) | |||||||||||||||||||||
尚善 | |||||||||||||||||||||
純久[肥前 1] | |||||||||||||||||||||
純堯 | 純門 | 深堀純賢 | |||||||||||||||||||
信尚 | 信久 | 横田純家 | |||||||||||||||||||
純成 | |||||||||||||||||||||
義俊 | |||||||||||||||||||||
注釈
- ^ 有馬尚鑑の子。
- 系譜参考
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薩摩西郷氏
薩摩藩の西郷氏は肥後西郷氏の流れで、肥前西郷氏と同族であり、幕末維新に活躍した西郷隆盛・従道兄弟を世に出した家として知られている(隆盛は変名として、菊池姓を名乗ったこともある)。幕末の薩摩藩においては、御小姓与身分である下級藩士であった。この西郷氏は、室町初期に惣領家の菊池氏が没落すると、薩摩国に移住して島津家が九州をほぼ制圧した折に、臣従した。あるいは江戸時代の元禄年間に薩摩藩士になったとも伝わる。
明治維新後の1884年(明治17年)に従道は戊辰戦争の軍功で伯爵に叙され、1895年(明治28年)には日清戦争の軍功で侯爵に陞爵した。またこれとは別に西郷隆盛の息子西郷寅太郎は1902年(明治35年)に父の維新の功により侯爵に叙せられた[2]。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
菊池則隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西郷政隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆基 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆季 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆房 | 奥松隆秀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(4代略) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基宗 | 秀世 | 西郷秀範 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(18代略) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆純 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
九兵衛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉兵衛[薩摩 1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
覚左衛門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉兵衛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
覚左衛門 | 隆充 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉兵衛隆盛 | 大山綱昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉之助隆盛 | 隆広 | 従道 | 隆雄 | 琴 | 鷹 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寅太郎 | 午次郎 | 菊次郎 | 隆準 | 上村従義 | 従徳 | 小松従志 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆幸 | 隆輝 | 吉之助 | 隆明 | 隆秀 | 隆泰 | 準 | 従吾 | 古河従純 | 黒木従達 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉太郎 | 隆晄 | 隆廣 | 隆文 | 従節 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注釈
- ^ 平瀬治右衛門の三男。
備考
なお、西郷九兵衛(沢田延音は本名は昌隆であるとしている)は、菊池氏初代の菊池則隆の庶長子で肥後国菊池郡西郷村(現在の熊本県菊池市七城町砂田の西郷地区[3])を領して増永城に居城した西郷政隆の25世孫であるという(西郷隆盛参照)。
その一方、上記の隆盛を出した家(仮に増永西郷家とする)とは別系統で、分家筋の西郷氏も存在したという。肥後国より薩摩藩に移住した増永西郷家の分家筋である。
西郷九兵衛が死去する元禄年間より前の、寛文9年春に島津綱貴が大田久知と河野通古に作らせた島津氏家臣の系譜集「諸家大概」(現在は鹿児島大学付属図書館に複写本あり、原本は行方知らず)の西郷氏の記述に西郷九郎秀範がでる。この西郷九郎秀範という人物は「さつまの姓氏」では増永西郷家の分家の奥松氏より出るとしている。奥松氏と西郷九朗秀範については以下の通りである。
- 増永西郷家の三代目当主西郷隆季(西郷隆盛の29代前の先祖)の子、隆秀が肥後国菊池郡奥松城(熊本県のどこかは不明)を築城し奥松氏を称する。
- 奥松隆季の5世孫秀世の弟である秀範、西郷氏に復し薩摩に落去。
- 「諸家大概」では、西郷隆季を建武年間の人として紹介。なお、この西郷隆季の甥、奥松貞秀が菊池武重と不和になり、康安元年(1361年)10月、子の経秀とともに肥後を落去して日向国諸県郡小林郷真方村に移住。経秀は西郷氏に復した。経秀の9世孫、始羅郡帖佐郷(現在の鹿児島県姶良市帖佐)に移住した。
別系統の西郷氏
三河西郷氏
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三河の西郷氏(「郷」の異体字「鄕」を用いて「西鄕」とも書く)は、南北朝時代、後に細川清氏と対立し南朝方に帰服したこともあった仁木義長がその後三河国の守護になったため、土岐頼忠の子の西郷頼音が三河守護代に任じられたのが始まりとされている(上記の菊池姓西郷氏および竹内家の系統とする説は異論あり)。
室町時代には同国額田郡南部(現在の愛知県岡崎市・幸田町)で勢力があり、守護代でなくなった後も三河に残り、有力な国人となった。15世紀半ば三河国守護代西郷稠頼、そして、その子頼嗣により三河国岡崎城築城。次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。
また、三河には戦国時代の後期に同国最東部の八名郡の中でも、遠江国との国境辺りを領し、月ヶ谷城(愛知県豊橋市嵩山(すせ)町)、そして、五本松城、西川城(いずれも同市西郷校区)を居城とした西郷氏があり、守護代西郷氏の同族とされている。
八名郡の西郷氏は、16世紀に駿河の今川氏が戦国大名として台頭するとこれに服した。西三河の松平清康が台頭し、全三河を従える勢いとなると松平氏に服属し、1530年に清康が宇利城(現在の新城市)を攻めたときこれに従った。しかし、1535年に清康の横死(森山崩れ)によって松平氏が弱体化すると、今川氏に再属する。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、松平元康(徳川家康)が岡崎城に入って松平氏を再興すると、西郷正勝は次男の清員を人質に出して家康に従った。しかし遠江に近い西郷氏は今川方の反攻にさらされ、永禄5年(1562年)には、遠州宇津山城から朝比奈氏の侵攻を受けて、正勝とその嫡男・元正は戦死した。このため西郷氏は幼い元正の子・義勝が継ぎ、叔父の清員が後見した。
天正3年、武田氏の先遣・秋山虎繁(信友)が三河の設楽郡に南下侵攻してきた際、西郷氏は菅沼氏、設楽氏とともに戦ってこれを撃退するも、この戦いで義勝が戦死した。義勝の子はまだ生後まもなかったため、家康は清員の嫡男家員に西郷氏の宗家を継がせた。なお、義勝の妻(西郷正勝の外孫)は、のちに清員の養女として家康の側室西郷局(お愛)となり、徳川秀忠と松平忠吉を産んでいる。
西郷家員は1590年の徳川氏の関東移封の際、下総国千葉郡生実(現在の千葉県千葉市中央区)に5000石を与えられた。そして家員の子正員(まさかず)のとき5000石を加増されて安房国東条藩1万石(現在の同県鴨川市東町)を立藩、大名に列した。
その後、寿員(ひさかず)のとき、1692年に転封されて下野国上田藩1万石(現在の栃木県下都賀郡壬生町)の大名となったが、翌1693年に5000石を収公され、子孫は旗本として家名をつないだ。
その他、清員の弟や従兄弟などが徳川御三家や井伊氏、戸田松平家、会津松平家などに仕えている。とくに会津藩(現在の福島県会津若松市)では家老をつとめ、幕末に西郷頼母を出した。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
菊池則隆[要出典] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西郷政隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆基 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆季 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆房 | 山鹿経政 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆有 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(数代略) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信治[三河 1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(4代略) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
盛正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(4代略) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正員 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正勝 | 照員 | 正忠 | 俊員 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元正 | 清員 | 勝茂 | 信正 | 清勝 | 女 | 政家 | 元勝 | 正好 | 行任 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義勝 | 正友 | 家員 | 員重 | 守勝 | 西郷局 | 西郷局 | 正実 | 元次 | 元成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家員 | 勝忠 | 重員 | 員勝 | 元正 | 近房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近藤忠吉 | 忠員 | 康員 | 正員 | 正勝 | 近方 | 近天 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康員 | 正胤 | 近張 | 房成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正員 | 義龍 | 近致 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
延員 | 末員 | 用員 | 近義 | 近寧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寿員[三河 2] | 重員 | 行員 | 氏員 | 茂員 | 茂員 | 近光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠英[三河 3] | 近思 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近悳 | 山田直節 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
四郎[三河 4] | 有鄰 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注釈
- 系譜参考
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備前西郷氏
備前西郷氏は宇喜多氏の一族とされる。
その宇喜多氏とは、上記の菊池氏から派生した西郷諸氏と同様の藤原北家の流れではあるが、こちらは閑院流三条支流とされている。 宇喜多氏系図(備前藩大森景頼所蔵)や岡山の歴史書などには、宇喜多氏の系譜を汲むとされる西郷三郎の名前が見える。 備前児島半島を東児島、中児島、西児島と三つに分け、東児島を東郷太郎、中児島を加茂次郎、西児島を西郷三郎(稗田三郎とする文献もある)と、三兄弟がそれぞれ居住したとされる。
因幡西郷氏
因幡国八上郡弓河内村(現在の鳥取県鳥取市河原町)出身の一族。出自などは不明だが弓河内村の在地領主であった一族か。一族の西郷因幡守は同国の武将・武田高信に因幡武田氏の家老として重用された。天正4年(1576年)5月に主君の武田高信が山名豊国によって謀殺され、仕えていた因幡武田氏が滅亡して以降、帰農したと伝える。
豊前西郷氏
南北朝時代に西郷高瀬によって不動ヶ岳城築き、そこを居城にしたという。不動ヶ岳城は天文年間に大友氏に攻められ落城している。
脚注
参考文献
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 鹿児島県史料刊行委員会 編『鹿児島県史料集Ⅳ』鹿児島県立図書館、1966年3月31日。
- 川崎大十『「さつま」の姓氏 : 薩摩・大隅・奄美・日向の一部』(初)高城書房、2000年3月。ISBN 4924752967。
- 小林貞美; 牧野登『西郷氏興亡全史』歴史調査研究所、1994年7月。 NCID BN11999367。
- “地名をあるく 78.郷”. 高梁市公式ホームページ. 高梁市役所 (2012年2月1日). 2016年2月4日閲覧。
- 高橋正弘『因伯の戦国城郭』 通史編、高橋正弘(自費出版)、鳥取、1986年11月。 NCID BN00775095。
- 平凡社地方資料センター 編『鳥取県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系, 32〉、1992年10月。ISBN 4-582-49032-8。
- 森山町 編『改訂増補 森山町郷土誌』森山町、2004年3月31日。 NCID BA66716277。
関連項目
西郷家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 18:39 UTC 版)
「篤姫 (NHK大河ドラマ)」の記事における「西郷家」の解説
西郷吉之助(さいごう きちのすけ) (西郷吉之助→西郷隆盛) 演:小澤征悦 御小姓与と呼ばれる下級藩士のひとり。尚五郎とは身分を越えた友人。 郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)を務めていた際、農民の窮状を見かねて今和泉領主・島津忠剛に直訴を行い、それが元で今和泉家は取り潰し寸前に追い込まれた。島津斉彬の藩主相続を支持し、後に建白書が認められて江戸詰の一員に加えられ、庭方役と呼ばれる斉彬の側近に取り立てられる。篤姫の将軍家輿入れの際は、その嫁入り道具の調達一切を取り仕切った。 篤姫輿入れ後は、幾島・小の島と共に一橋慶喜将軍継嗣の政治工作に関ることになる。しかし、慶喜将軍継嗣の工作は失敗。斉彬の死後は幕府に追われる身となり、藩上層部からも見捨てられる形となった西郷は同志の僧・月照と錦江湾に身を投げるがひとり生き残り、表向きは死んだことにされて奄美大島へ流された。 島津久光が上洛を決断すると、京の情勢に詳しい者として帯刀に推薦されて帰郷を果たした。その後、久光と謁見するが、その率兵上洛を否定した挙句、無位無官の久光を「地ごろ」(田舎者)と表現したために久光の怒りを買った。その後、大久保から久光が斉彬の遺志を継ごうとしている事を聞いて上洛する事を決断。本隊に先行して下関へ発ったが、命に背いて大坂へ赴いたために久光の怒りを買って再び遠島となった。しかし京都で勢力を挽回しようとする久光の思惑によって再復帰し、軍賦役として長州藩との戦いに活躍する。そして帯刀や坂本龍馬らと協力して薩長同盟を締結した。 慶喜が将軍に就任すると、亡き斉彬の遺志が実現したと喜び、列侯会議に期待を寄せていたが、会議が頓挫したことで慶喜や将軍家自体に失望し、武力倒幕論に傾き大久保や岩倉具視と策を練り、幕府を挑発するために江戸城に火を放たせた。そして鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍を指揮して勝利。 江戸攻めでは官軍の総参謀に任命される。徳川家を倒してこそ新しい時代が開けると信じ、幾島から天璋院からの手紙を受け取って感涙しながらもその嘆願を固辞した。江戸に入ると勝麟太郎と交渉し、一度は決裂しかかるが、天璋院の斉彬からの手紙を見せられてかつての自分を思い出し、江戸城無血開城を承諾した。 維新後は隆盛と名乗る。新政府設立後間もなく薩摩に下野するが、死の間際の帯刀からの手紙を受けて復帰し、廃藩置県などの改革を断行。大久保らが外遊中の留守政府を預かるが、間もなく大久保らを憚って再度下野、天璋院に暇乞いをして鹿児島に帰国、西南戦争で自刃した。 西郷信吾(さいごう しんご) (西郷信吾→西郷従道) 演:水谷百輔 西郷の弟。名は従道。兄とは違って血気盛んな性格。有馬新七に同調して、同志たちとともに京都寺田屋で京都所司代暗殺を謀った。その後の旧幕府軍と戦闘では、兄とともに薩摩軍幹部として列席する。 西郷吉次郎(さいごう きちじろう) 演:真島公平(第6回:鈴木兵太郎) 西郷の弟。弟の信吾と郷中仲間に顔を出している。 西郷吉兵衛(さいごう きちべえ) 演:五王四郎 西郷の父。西郷とスガの宴席に出席している。 スガ 演:森脇由紀 西郷の妻。尚五郎や大久保らに祝福されながら結婚した。 政子(まさこ) 演:高岡雅子 西郷の母。西郷とスガの宴席に出席している。 西郷龍右衛門(さいごう りゅうえもん) 演:小泉龍彦 西郷の祖父。西郷とスガの宴席に出席している。 コト / タカ 演:室伏由紀江(コト)/ 青木琴子(タカ) 西郷の妹。西郷とスガの宴席では来客への給仕を担当していた。
※この「西郷家」の解説は、「篤姫 (NHK大河ドラマ)」の解説の一部です。
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西郷家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:53 UTC 版)
西郷頼母(さいごう たのも) 演:西田敏行 会津藩家老。 会津に赴いて間もない容保に近くで仕え、会津藩の藩風や仕来りなどを教育した。幼少期の八重とは模擬戦である追鳥狩の際に草履を落とされ妨害された際にその張本人が八重であると知った際に初対面し激怒したが成人した八重と再会した時は、女性が砲術が活躍する場が無いことなどお互いに本音を語り合える存在となった。藩の兵制改革にいち早く賛同し、覚馬を取り立てた。幕府の京都守護職要請に際しては、容保に要請拒否を強く求め、守護職就任後も速やかな辞職を求め続けたことで容保の不興を買って家老職を解かれ、謹慎を命じられる(この事を八重に明かしている)。 鳥羽・伏見での敗戦後に家老に復職し、新政府への恭順を主張した。会津戦争が勃発すると白河方面の総督を任されるが、寡勢の新政府軍に敗北する。その後、鶴ヶ城に帰参し再度の恭順を勧めたが、周りの重臣が徹底抗戦を主張している中で孤立し、白河総督の任を解かれた。籠城戦となると登城するが、次第に会津が絶望的な状況になると会津存続を願って改めて恭順を勧めるが、徹底抗戦を主張する多くの重臣に非難され、容保からも意見を聞き入れられることはなく、萱野権兵衛への伝令役という形で実質的に城を追われた。また、鶴ヶ城籠城戦の際に、八重に「にしの鉄砲は城を守る為に使え」と助言した。役目を終えると会津を離れ、函館戦争に身を投じるが、それも敗北に終わると生きて会津を踏みつぶしていった者達が作る世を見届けると決意する。 維新後、会津を訪れた八重と再会し、これまで生きてきた経緯を語り、会津戦争から立ち上がり勲章をもらった八重を一度散っても春になれば再び花を咲かせる桜に例え、会津の希望であることを示唆した。 西郷千恵(さいごう ちえ) 演:宮崎美子 頼母の妻。 城下に新政府軍が襲来すると、会津の無実を訴え、新政府軍の非道な力には屈しないことを死を持って示すのが西郷家の役目と殉死の大儀を家族に諭したのち、一家と共に自刃して果てた。 西郷眉寿(さいごう みす) 演:中島亜梨沙 頼母の妹。 西郷由布(さいごう ゆう) 演:玄里 頼母の妹。 西郷細布(さいごう たえ) 演:田中明 頼母の長女。 母や一族と共に自刃するが、死に切れずに瀕死の状態でいたところを板垣退助に発見され、彼女の願いを容れた板垣によって止めを刺される。 西郷瀑布(さいごう たき) 演:豊田留妃 頼母の次女。 西郷律(さいごう りつ) 演:久松夕子 頼母の母。 西郷吉十郎(さいごう きちじゅうろう) 演:関ファイト 頼母の長男。 母・千恵から父・頼母と共に働くよう言われたため、一族の自刃からは逃れた。 西郷常磐(さいごう とわ) 演:田嶋絆 頼母の四女。
※この「西郷家」の解説は、「八重の桜」の解説の一部です。
「西郷家」を含む「八重の桜」の記事については、「八重の桜」の概要を参照ください。
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