西郷信尚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 09:49 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 純尚→信尚 |
官位 | 肥前守(受領名) |
氏族 | 肥前西郷氏 |
父母 | 父:西郷純堯、母有馬義貞姉(娘とも) |
兄弟 | 信尚、信久、横田純家、松浦鎮信正室[1] |
妻 | 松浦氏 |
子 | 純久 |
西郷 信尚(さいごう のぶなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。小野城主。
略歴
天正5年(1577年)、6月下旬、父純堯は龍造寺隆信の伊佐早侵攻に際し、降伏を許され、純尚は隆信から偏諱を受け信尚と改めた。そのしばらく後に純堯が死去したため、信尚が西郷氏の家督を継いだ。
同15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定に参陣しなかったため、秀吉から領地を没収される。信尚に変わって龍造寺家晴が伊佐早を治めることとなったが、同年に発生した肥後国人一揆を鎮圧するため、家晴が出陣した隙に信尚が挙兵、伊佐早城を奪回した[2]。秀吉は直ちに鎮圧すべく、小早川隆景の指揮の下、家晴や鍋島氏、有馬氏らに討伐を命じた。信尚方は陣の辻で龍造寺方に戦いを挑むも敗北する。この戦いで信尚は家晴に討たれたとも、妻の実家がある平戸へ逃れたともいわれている。
信尚の嫡男・純久は松浦氏に仕え、500石を領した。
西郷信尚が登場する作品
脚注
- ^ 『史料綜覧』第9編之910 468頁
- ^ 『史料綜覧』第11編之912 182頁
- ^ テレビドラマデータベース
出典
- 西郷信尚のページへのリンク