西郷家と日置島津家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:15 UTC 版)
前述のとおり、隆充の妻四本氏は日置郷士の娘である。日置郷は島津家の分家で、島津貴久の三男島津歳久を祖とする家格一所持の日置島津家の私領地である。日置島津家は正徳元年(1711年)、庶流に赤山氏を称するように命じたため、島津久竹の次男が赤山氏を称したが、この家より赤山靱負久晋が出る。なお、同家は家格一所持の中でも「大身分」とも言われる特別な存在であり、一門家に次ぐ扱いであった。家老職に就くものも多かった。西郷家は貧乏なので、隆充の妻・四本氏女は主家の日置島津家に出入りして米塩を調達していた。この縁故により隆充の子の吉兵衛は四本家を通して、日置島津家に出入りして緊密になり、日置島津家庶流の赤山家にも出入りすることとなった。 「日吉町郷土誌」によれば、隆充の妻の弟・四本義照は西郷隆盛が僧の月照と入水の後、隆盛のみ蘇生したことが上之園町の西郷家に伝わった際、駕籠と3枚の着物を用意して、人目の多い大門口(現在の鹿児島県鹿児島市)を避けて、天保山(現在の鹿児島県鹿児島市)の海岸に廻回してもらい、ここで西郷隆盛を着衣を着替えさせて、駕籠で西郷家に送ったという。 城下士の隆充と、日置郷士の四本氏がどうして接点を持ったかは明らかではない。
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