島津歳久(しまづ としひさ) 1537~1592
島津歳久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/04 06:50 UTC 版)
島津 歳久(しまづ としひさ)は、戦国時代の武将。島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。日置島津家の祖にあたる。
- ^ a b c d e f g h i 『島津歳久の自害(増補改訂版)』島津修久著 島津顕彰会、2000年10月
- ^ 以上は島津家側の史料による。豊臣側の史料『豊臣鎮西軍記』には、歳久の名前はなく、活動は不明である。また、島津家の代表者は義久・義弘となっている。本文中では、義久・義弘・家久と肥後口の総大将であった政久(まさひさ)が登場する。
- ^ さつま人国誌「島津歳久、波乱の生涯・下」http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=6826
- ^ さつま人国誌「島津歳久の最期」http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=6877
- ^ 九州征伐の頃には病気のため乗馬できず、輿に乗って闘ったと史料にある
- ^ 現在の平松神社はこの心岳寺の跡地に立てられたもの。毎年旧暦7月18日にはその遺徳を偲んで「心岳寺詣り」が行われる。
- ^ なお、時久が祁答院に入部した際に旧領の都城を偲んで祁答院の中心部(虎居・舟木・時吉など)を「宮之城」と命名したといわれる。このため現在において「祁答院」と呼ばれる薩摩川内市祁答院町は藺牟田・大村・黒木であり、「本来の祁答院」からいえば端に当たる。
- 1 島津歳久とは
- 2 島津歳久の概要
- 3 生涯
- 4 人物
- 5 島津義久・義弘の追悼の和歌
島津歳久(しまづ としひさ)
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「センゴク」の記事における「島津歳久(しまづ としひさ)」の解説
通称は左衛門督。島津四兄弟の三男。「智計並びなく」と評される。冷静沈着な性格で兄弟の中では「謀」を担当しており、兄・忠平に「議は貴殿に勝てもはん」と言われるほどの知将。
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