島津氏との対立と降伏とは? わかりやすく解説

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島津氏との対立と降伏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:33 UTC 版)

相良義陽」の記事における「島津氏との対立と降伏」の解説

永禄7年1564年2月11日より島津氏侵攻開始されるうになる義陽堅く城を守るよう命じていたものの、このとき大口城城番をしていた赤池長任逆に島津氏領地へ兵を進めて、筈ヶ尾城(筈尾城)を攻撃し出撃した薩摩勢を一撃してから退いている。 このとき東出羽守は外交役として刈にきていて対応を誤り出奔したが、後に相良氏追手により成敗された。一方義陽自身この頃天草に於ける志岐氏本氏・有馬氏連合軍との戦い出陣しており、さらに名和行興の死後起こった名和氏内紛(内河氏の追放)に介入して豊福城を伺っていたが、このときは撤兵同年2月将軍足利義輝から従四位下・修理大夫官位偏諱(「義」の一字)が与えられて「義頼」(よしより)、更に「義陽」と名乗った。このことは相良氏大友氏からの自立志向を示すものと評価されており、周辺諸国衝撃与え大友宗麟島津義久室町幕府激しく抗議をしている。なお、相良氏史料からは島津氏からの抗議記述確認できないまた、「義」の字そのもの先々代・義滋も与えられているため、抗議理由相良氏従五位下通例であるのに対し従四位下へ叙任されたことが異例であった為でないかとされる一方そもそも相良氏偏諱任官できる家格ではないのに、相良義滋・晴広が大内義隆仲介偏諱任官受けたのが異例先例にすべきではないと考えていた大友氏からの抗議本格的で、義頼(義陽)は一部内々文書菩提寺への祈願文など外部見せない性質のもの)以外の家中及び対外的な文書に対して旧名の「頼房」名義で出さざるを得なくなったその後室町幕府献金行っていたようで、織田信長中央勢力伸ばして足利義昭擁立し二条城修築費用諸大名求めた際には、相良氏朝廷への貢租7年分に当たる費用献じている。義頼から義陽名乗るようになったのは、天正2年1574年8月15日からである。 永禄8年1565年)、改め出陣し名和行直を討って奪われていた豊福城を回復し、このとき御船甲斐宗運久しぶり会盟した。 永禄10年1567年11月24日から25日島津勢が刈氏を征伐すると、刈氏は10に及ぶ塁を落去大挙して大口城逃れ来る。翌永禄11年1568年)、赤池長任刈勢と共に大口城攻めて来た島津勢を破るが、永禄12年1569年5月、このときの城番であった深水頼金の諌め無視して、(剣豪有名な丸目長恵内田伝右衛門らが島津家久交戦し大敗喫したまた、伊東氏伊東義益急死により7月真幸院より退去したこともあってか、相良勢は9月大口城開城薩摩における領土失い刈氏も島津氏降伏した。これを切っ掛け島津氏12月28日東郷氏入来院氏降伏させて薩摩統一を果たす(城の明け渡し翌年1月)。 元亀3年1572年)の木崎原合戦では伊東義祐連合して島津義弘挟み撃ちにする計画であったが、義弘奇襲によって伊東軍が壊滅したため、慌てて引き返した天正3年1575年9月以降織田信長依頼受けた関白近衛前久相良氏をはじめ、島津伊東大友諸氏和解勧め連合して毛利輝元を討つ様に説得工作あたった伊東氏滅亡寸前追い込んでいた島津氏反対によって工作自体成功しなかったものの、摂関家の長たる前久の来訪相良氏始まって以来出来事であり、感動した義陽は前久に臣下の礼を取り逆に前久も義陽朝廷対す崇敬純粋さ感動し島津義久迫って一時停戦受け入れさせたほどであったという。しかしながら、この和睦には義陽の方が返事渋っており、義久が前久の要請従い起請文提出した事でようやく実現している。これを機に義陽内外文書に対して義陽名義文書を出すようになり、大友宗麟島津義久対抗する上で相良氏との関係を重視する方針転換して天正5年1577年になって義陽に対して偏諱授与事実承認した。 しかし、天正6年1578年)に島津氏大友氏耳川の戦いで破ると、大友与する阿蘇氏への攻撃開始して肥後国進出天正7年1579年)になると相良領へも戦火が及び、天正9年1581年島津義久大挙して水俣城包囲すると、義陽葦北郡割譲し息子相良忠房相良頼房人質として差し出して降伏した

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島津氏との対立と降伏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 13:45 UTC 版)

東郷氏 (薩摩国)」の記事における「島津氏との対立と降伏」の解説

文明8年1476年1月、立久の後を継いだ11守護の忠昌に対し島津薩州家2代国久ならびに島津豊州家2代忠廉肥後相良氏刈氏と結託し叛乱に及ぶ。これに渋谷一族守護方に就き薩摩国肥後国境目守った。しかし、島津内部敵味方入れ替わる混乱期至り島津伊作家8代久逸が日向国伊東氏と結ぶと薩州家守護方に就いて、この征伐派兵するなどした。その混乱渋谷一族にも波及し、まず高城(たき)氏が領地を逐われ没落祁答院氏守護方に就き東郷氏入来院氏豊州方に就く有様であり、水引にあった東郷氏薩州家与した同族祁答院氏攻められている。島津宗家求心力徐々に低下させていったが、そんな中永正5年1508年)に守護の忠昌が自殺その後継いだ嫡男忠治次男忠隆が相次いで早世し、更にその後継いだ14代勝久が薩州家よりの逼迫窮するあまり守護職伊作忠良島津忠良)の嫡子久に譲ったかと思うと、今度薩州家に諭され貴久を廃嫡守護返り咲こうとするなど、益々混迷加速させていった自ずと国人たちは独自の動き顕著とさせ、東郷氏もその類に漏れなかった。 15代重治の頃、重治の家臣薩州家6代義虎の家臣湯田兵庫成重の秘蔵盗み出し、それを取り返しに来た成重に殺害される事件発生、これにより東郷氏薩州家の関係は悪化天文16年1547年)より20年近くに及ぶ争乱へと至った。その一方島津家内部では島津忠良・貴久父子島津宗家として薩州家従属させ、更に天文23年1554年)の岩剣城戦いで大勝すると、薩摩大隅日向三国統一着々と推し進める。やがて祁答院当主の良重が自らの妻に殺害されて家が没落東郷氏16代の重尚は入来院氏13代重嗣と連合し島津家対立し続けたが、永禄12年1569年12月28日ついに全領地献上の上島津宗家降伏申し入れた東郷氏東郷の地のみを安堵され、以後島津家となった。 また重尚には嗣子無く島津家久次男の重虎(後の島津忠仍)がその養嗣子となった。重虎は後に島津氏復姓その後継いだ嫡子忠昌は寛永9年1632年)に島津姓を辞退する旨を上申し翌年受理されたため東郷復姓する(東郷昌重と称する)。忠昌はその後樺山久尚の養子となったため(樺山久広と称する)重虎次男の重経が跡目継いだ。重経と三男の重頼も東郷復姓、また重頼の子の忠辰は居住地本城(現・鹿児島県伊佐市)から取って本城氏を名乗っている。

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