島津氏との対立と降伏
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永禄7年(1564年)2月11日より島津氏の侵攻が開始されるようになる。義陽は堅く城を守るよう命じていたものの、このとき大口城の城番をしていた赤池長任は逆に島津氏の領地へ兵を進めて、筈ヶ尾城(筈尾城)を攻撃し、出撃した薩摩勢を一撃してから退いている。 このとき東出羽守は外交役として菱刈にきていて対応を誤り出奔したが、後に相良氏の追手により成敗された。一方、義陽自身はこの頃、天草に於ける志岐氏・栖本氏・有馬氏の連合軍との戦いへ出陣しており、さらに名和行興の死後に起こった名和氏の内紛(内河氏の追放)に介入して豊福城を伺っていたが、このときは撤兵。 同年2月、将軍・足利義輝から従四位下・修理大夫の官位と偏諱(「義」の一字)が与えられて「義頼」(よしより)、更に「義陽」と名乗った。このことは相良氏の大友氏からの自立志向を示すものと評価されており、周辺諸国に衝撃を与え、大友宗麟と島津義久が室町幕府に激しく抗議をしている。なお、相良氏の史料からは島津氏からの抗議の記述は確認できない。また、「義」の字そのものは先々代・義滋も与えられているため、抗議の理由は相良氏は従五位下が通例であるのに対し、従四位下へ叙任されたことが異例であった為でないかとされる。一方、そもそも相良氏は偏諱・任官できる家格ではないのに、相良義滋・晴広が大内義隆の仲介で偏諱・任官を受けたのが異例で先例にすべきではないと考えていた大友氏からの抗議は本格的で、義頼(義陽)は一部の内々の文書(菩提寺への祈願文など外部に見せない性質のもの)以外の家中及び対外的な文書に対しては旧名の「頼房」名義で出さざるを得なくなった。 その後も室町幕府に献金は行っていたようで、織田信長が中央で勢力を伸ばして足利義昭を擁立し、二条城修築の費用を諸大名に求めた際には、相良氏の朝廷への貢租7年分に当たる費用を献じている。義頼から義陽と名乗るようになったのは、天正2年(1574年)8月15日からである。 永禄8年(1565年)、改めて出陣し、名和行直を討って、奪われていた豊福城を回復し、このとき御船で甲斐宗運と久しぶりに会盟した。 永禄10年(1567年)11月24日から25日、島津勢が菱刈氏を征伐すると、菱刈氏は10に及ぶ塁を落去し大挙して大口城へ逃れ来る。翌永禄11年(1568年)、赤池長任は菱刈勢と共に、大口城を攻めて来た島津勢を破るが、永禄12年(1569年)5月、このときの城番であった深水頼金の諌めを無視して、(剣豪で有名な)丸目長恵・内田伝右衛門らが島津家久と交戦し大敗を喫した。また、伊東氏が伊東義益の急死により7月に真幸院より退去したこともあってか、相良勢は9月に大口城を開城、薩摩における領土を失い、菱刈氏も島津氏へ降伏した。これを切っ掛けに島津氏は12月28日に東郷氏、入来院氏を降伏させて薩摩統一を果たす(城の明け渡しは翌年1月)。 元亀3年(1572年)の木崎原合戦では伊東義祐と連合して島津義弘を挟み撃ちにする計画であったが、義弘の奇襲によって伊東軍が壊滅したため、慌てて引き返した。 天正3年(1575年)9月以降、織田信長の依頼を受けた前関白・近衛前久が相良氏をはじめ、島津・伊東・大友の諸氏に和解を勧め、連合して毛利輝元を討つ様に説得工作にあたった。伊東氏を滅亡寸前に追い込んでいた島津氏の反対によって工作自体は成功しなかったものの、摂関家の長たる前久の来訪は相良氏始まって以来の出来事であり、感動した義陽は前久に臣下の礼を取り、逆に前久も義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動し、島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであったという。しかしながら、この和睦には義陽の方が返事を渋っており、義久が前久の要請に従い、起請文を提出した事でようやく実現している。これを機に義陽は内外の文書に対して「義陽」名義の文書を出すようになり、大友宗麟も島津義久に対抗する上で相良氏との関係を重視する方針に転換して、天正5年(1577年)になって義陽に対して偏諱授与の事実を承認した。 しかし、天正6年(1578年)に島津氏が大友氏を耳川の戦いで破ると、大友に与する阿蘇氏への攻撃を開始して肥後国へ進出、天正7年(1579年)になると相良領へも戦火が及び、天正9年(1581年)島津義久が大挙して水俣城を包囲すると、義陽は葦北郡を割譲し、息子の相良忠房や相良頼房を人質として差し出して降伏した。
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島津氏との対立と降伏
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「東郷氏 (薩摩国)」の記事における「島津氏との対立と降伏」の解説
文明8年(1476年)1月、立久の後を継いだ11代守護の忠昌に対し、島津薩州家2代国久ならびに島津豊州家2代忠廉が肥後相良氏や菱刈氏と結託し叛乱に及ぶ。これに渋谷一族は守護方に就き、薩摩国と肥後国の境目を守った。しかし、島津内部は敵味方が入れ替わる混乱期に至り、島津伊作家8代久逸が日向国の伊東氏と結ぶと薩州家は守護方に就いて、この征伐に派兵するなどした。その混乱は渋谷一族にも波及し、まず高城(たき)氏が領地を逐われ没落、祁答院氏は守護方に就き、東郷氏と入来院氏は豊州方に就く有様であり、水引城にあった東郷氏は薩州家に与した同族の祁答院氏に攻められている。島津宗家は求心力を徐々に低下させていったが、そんな中、永正5年(1508年)に守護の忠昌が自殺、その後を継いだ嫡男忠治、次男忠隆が相次いで早世し、更にその後を継いだ14代勝久が薩州家よりの逼迫に窮するあまり守護職を伊作忠良(島津忠良)の嫡子貴久に譲ったかと思うと、今度は薩州家に諭され貴久を廃嫡し守護に返り咲こうとするなど、益々混迷を加速させていった。自ずと国人たちは独自の動きを顕著とさせ、東郷氏もその類に漏れなかった。 15代重治の頃、重治の家臣が薩州家6代義虎の家臣湯田兵庫成重の秘蔵の犬を盗み出し、それを取り返しに来た成重に殺害される事件が発生、これにより東郷氏と薩州家の関係は悪化、天文16年(1547年)より20年近くに及ぶ争乱へと至った。その一方、島津家内部では島津忠良・貴久父子が島津宗家として薩州家を従属させ、更に天文23年(1554年)の岩剣城の戦いで大勝すると、薩摩・大隅・日向三国の統一を着々と推し進める。やがて祁答院当主の良重が自らの妻に殺害されて家が没落、東郷氏16代の重尚は入来院氏13代重嗣と連合し島津家と対立し続けたが、永禄12年(1569年)12月28日ついに全領地を献上の上で島津宗家に降伏を申し入れた。東郷氏は東郷の地のみを安堵され、以後は島津家臣となった。 また重尚には嗣子が無く、島津家久次男の重虎(後の島津忠仍)がその養嗣子となった。重虎は後に島津氏に復姓、その後を継いだ嫡子忠昌は寛永9年(1632年)に島津姓を辞退する旨を上申し、翌年に受理されたため東郷に復姓する(東郷昌重と称する)。忠昌はその後樺山久尚の養子となったため(樺山久広と称する)重虎次男の重経が跡目を継いだ。重経と三男の重頼も東郷に復姓、また重頼の子の忠辰は居住地の菱刈本城(現・鹿児島県伊佐市)から取って本城氏を名乗っている。
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