赤池長任とは? わかりやすく解説

赤池長任(あかいけ ながとう) ????~????

伊豆守
 肥後相良氏臣。肥後赤池城主大口城にて薩摩島津氏戦った際、1568年の堂ヶ崎の戦いにおいて勇猛知られる島津義弘の軍を打ち破っている(が、相良5000VS島津300一方的な戦いだったから当然でもある)。この時義弘は、家臣身代わり逃げ延びた程であったという。

赤池長任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 08:17 UTC 版)

 
赤池 長任
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄2年(1529年[要出典]
死没 不明
官位 伊豆守
主君 相良氏
氏族 赤池氏
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赤池 長任(あかいけ ながとう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥後国相良氏の家臣。

略歴

大口城在番の番頭の一人として人吉衆の将及び雑兵1,000名[1]と共に大口城へ入った[2]永禄7年(1564年)、相良氏が伊東氏と結んだために島津氏との関係は悪化し、大口城をめぐって激しい猛攻をかけてくるようになった。長任は堅固に在番するよう命じられていたものの、2月21日に野戦を仕掛けるべく、桑幡新六、岩崎六郎兵衛を先手に騎馬武者65騎、雑兵合わせて300余人で筈ヶ尾に出陣。放火と挑発を行い、出てきた島津軍と交戦したが敗れて大口城へ退却、殿となった長任と岡本頼氏は手傷を負い、桑幡、岩崎などたくさんの兵が討ち死にした。

永禄10年(1567年4月9日[3]、市山城へ在番中の新納忠元が、島津義久からの使者を見送りに城外へ出た際に、長任は大口城から上村弥九郎、的場五藤左衛門らを差し向け、忠元を初栗にて襲撃、忠元が市山城へ入ってもなおこれを追撃し、本丸の城の戸口で島津方と鑓を合わせている。

翌11年(1568年)1月20日には大口城へ押し寄せた島津軍を菱刈氏と共に撃退し、島津義弘を窮地に追い込んだ。また、この戦では岡本頼氏が川上久朗に手傷を負わせ、死に至らしめる大功を挙げている。

以降、相良氏の史書にはその名を見なくなるが、天正2年(1574年)に東長兄、深水頼金との連名により書かれた文書が存在する。

脚注

  1. ^ 大口番頭一組300名ともあり、また大口に百人番所という処があったため100名とも(『南藤蔓綿録』)
  2. ^ 東長兄、丸目頼美の3組みと半年毎の交代制。
  3. ^ 永禄11年(1568年2月28日説あり。

出典

  • 南藤蔓綿録』(1977年、青潮社)
  • 池田公一編著『中世九州相良氏関係文書集』(1987年、文献出版)



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