川上久朗とは? わかりやすく解説

川上久朗(かわかみ ひさあき) 1536~1568

源三郎 左近将監
◇父:川上忠克 子:川上久辰
 薩摩島津氏重臣島津勇将一人。兄忠頼死後当主となる。18歳にして当主義久から守護代に任ぜられようとした程の才幹の士。太刀長刀鎌槍自由自在に使いこなした剛将であったという。堂ヶ崎の合戦において、多勢に無勢大隅刈氏らの軍に向かおうとする島津忠平(義弘)を諫める聞き入れられなかった。結果島津軍敗走し、久朗は重傷負い亡くなった

川上久朗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 08:14 UTC 版)

 
川上 久朗
時代 戦国時代
生誕 天文6年(1537年
死没 永禄11年2月3日1568年3月1日
別名 通称:源三郎
戒名 随岳良順居士
墓所 鹿児島市福昌寺
官位 左近将監
主君 島津義久
氏族 川上氏
父母 父:川上忠克
兄弟 忠頼、久朗、忠実、女子、島津実久継室
久辰
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川上 久朗(かわかみ ひさあき)は、戦国時代武将島津氏の家臣。

略歴

天文6年(1537年)、川上忠克の二男として誕生。

久朗は島津氏の庶流川上氏の一族であることに加え、若い頃から智勇兼備の誉れが高く、その才能は島津忠良島津義久にも高く評価され、天文22年(1553年)に17歳にして当主の義久から島津氏の家老職、並びに谷山[1]地頭にまで任命されるという異例の抜擢を受けている。更に、義久の命で老中となり没年までその地位にあった。

先陣での功績も多く、弘治元年(1555年)の蒲生氏攻略、永禄4年(1561年)の肝付兼続との廻城合戦等、各地で奮戦している。その才能を遺憾なく発揮して武功を挙げたが、永禄11年(1568年1月20日相良・菱刈連合との戦いで、赤池長任と菱刈勢の籠る大口城攻めの際、島津義弘を守るために孤軍奮闘して13ヶ所もの深手を負い、鹿児島に帰還したが翌月3日に死去した。享年32。

久朗は若くから才幹を見込まれ、忠良もその名を看経所に記して将来を頼むほどであった。

脚注

  1. ^ 現・鹿児島県鹿児島市谷山。



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