福昌寺 (鹿児島市)
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福昌寺(ふくしょうじ)は、薩摩国鹿児島郡鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島県鹿児島市池之上町)に存在した曹洞宗の大寺。薩摩藩主島津氏の菩提寺であったが、廃仏毀釈により明治2年に廃寺となった[1]。山号は「玉龍山」であった。曹洞宗大本山總持寺の御直末である。
注釈
- ^ 出家した仲翁守邦のこと。
- ^ 南林寺、新照院町にあった重宝山上山寺、草牟田にあった天童山誓光寺、下伊敷にあった覚照山妙谷寺の住職でもある。嘉永4年(1852年)10月13日に70歳で亡くなる。
- ^ 誓光寺の庭にあったもの。
- ^ 島津斉彬の長女。
- ^ 島津氏の菩提寺である福昌寺は、廃寺の折も最後まで残されていたことから、明治2年末時点ではまだ、さほど荒れていなかったと考えられている[5]。
- ^ 鹿児島市常盤あたりの一帯。
- ^ 現在の鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校。
- ^ 第6代当主は、薩摩守護職の兄・師久と、大隅守護職の弟・氏久の2人がいる。
- ^ 5代目以前の当主の墓は、出水市の感応寺にある。
- ^ 所管は現在の島津氏当主[2]。
- ^ 川内山福寿院称名寺。
- ^ 種別は、有形文化財における美術工芸品の彫刻。
出典
- ^ a b c d e f “福昌寺跡” (PDF). 鹿児島県. 鹿児島県. 2020年10月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g “福昌寺跡”. かごしまデジタルミュージアム. 鹿児島市. 2020年11月21日閲覧。
- ^ “キリシタン墓地(鹿児島市)”. 明治維新と鹿児島みて歩き. 観光かごしま大キャンペーン推進協議会. 2020年11月21日閲覧。
- ^ a b “キリシタン墓地”. 燃ゆる感動かごしま国体・かごしま大会 鹿児島市実行委員会. 鹿児島市. 2020年11月21日閲覧。
- ^ 鹿児島史談会会長 山田尚二「鹿児島のキリシタン墓地について」『鹿児島史談 四号 別刷』鹿児島史談会、2000年10月1日。
- ^ a b 「第五編 明治前期の鹿児島」『鹿児島市史』(PDF) 1巻、鹿児島市、1969年2月、50頁 。2020年11月21日閲覧。
- ^ 「浦上天主堂で「流刑150年」記念ミサ 苦難の先人に思いはせ 司祭らを招きシンポも」『西日本新聞』西日本新聞、2018年7月24日。2020年11月21日閲覧。
- ^ “新たに指定された文化財”. 鹿児島市. 鹿児島市 (2020年5月28日). 2020年10月10日閲覧。
- ^ “薩摩川内市の指定文化財等一覧” (XLS). 薩摩川内市. 薩摩川内市. 2020年11月19日閲覧。
- 1 福昌寺 (鹿児島市)とは
- 2 福昌寺 (鹿児島市)の概要
- 3 沿革
- 4 キリスト教と福昌寺
- 5 廃寺後
- 6 所在地
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