廃寺後とは? わかりやすく解説

廃寺後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 23:37 UTC 版)

福昌寺 (鹿児島市)」の記事における「廃寺後」の解説

現在は歴代島津氏当主墓地群のみが残っている。跡地には昭和26年1951年)に鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校建てられた。学校背後には、6代島津師久島津氏久から28代・島津斉彬までの島津氏歴代当主とその家族の墓や石灯籠亀趺碑が並び区画分けた部分には、長寿院盛淳調所広郷などの墓も当時のまま残されている。山手には、歴代住職墓地前述キリシタン収容所病死しキリスト教信者たちのキリシタン墓地もある。なお、裏山常安峰(とこやすみね)にも島津忠義島津暐子島津忠重島津氏の墓『常安墓地』がある。 昭和28年1953年9月7日鹿児島県指定史跡指定され墓地内には鹿児島市設置した福昌寺跡解説碑や、どの墓が誰の墓なのかの配置解説されている案内図など、様々な案内板解説板も設置されている。令和2年2020年3月10日には、文化庁により文化財として国の史跡指定された。墓地は、地元ボランティアにより清掃活動行われている。 また、廃仏毀釈収束後、有志二度にわたり同地や現在は鹿児島市立長田中学校がある土地福昌寺再建しようとしたが許可されず、これを受けて明治31年1898年)、京都から鹿児島派遣された第72住職宝亀観道により、現在の薩摩川内市向田町の『称名寺跡地に、後裔寺院にあたる「福昌寺」が建立された。ちなみに薩摩川内市にある福昌寺入口付近には、阿形吽形仁王像設置されているが、これら一対仁王像鹿児島市池之上町福昌寺にあったものを明治31年10月27日宝亀観道が移設したもので、昭和60年1985年3月27日には薩摩川内市指定文化財指定されており、隣り設置されている解説板には薩摩川内市内では最大級石像であると記載されている。

※この「廃寺後」の解説は、「福昌寺 (鹿児島市)」の解説の一部です。
「廃寺後」を含む「福昌寺 (鹿児島市)」の記事については、「福昌寺 (鹿児島市)」の概要を参照ください。

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