甲斐における真言宗と平塩寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 03:33 UTC 版)
「平塩寺」の記事における「甲斐における真言宗と平塩寺」の解説
天台密教は平安後期に至ると衰退し、『国志』によれば1220年(承久2年)に平塩寺は天台寺院から真言寺院になったという。甲斐における真言宗の情勢は県内各地に伝存する経典などによって知られる。 法善寺(南アルプス市加賀美)には甲斐源氏の一族である一条信長が武田八幡宮(韮崎市)へ奉納した大般若経があり、大月市七保町下和田の花井寺所蔵の大般若経などとともに、甲斐源氏と真言宗の関わりを物語っている。笛吹市境川町大坪の実相寺には甲斐国二宮・美和神社、別当寺の慈雲寺を経て江戸時代に伝来した大般若経(県指定有形文化財)が所蔵されているが、これは平塩寺旧蔵品で、平塩寺において法善寺や大善寺、花井寺など国内の真言僧によって写経されたものであると考えられている。『山梨県史』の編纂事業に際した調査により、実相寺大般若経の裏貼から平塩寺の寺名と願主「空阿」の名前が発見された。空阿は義清の孫にあたる逸見久義の子空で、鎌倉時代末期・南北朝時代に甲斐への臨済宗布教に貢献する夢窓疎石は幼少時の1278年(弘安元年)に母とともに甲斐へ移り、平塩寺で空阿に学んでいる。 1582年(天正10年)3月には織田信長による甲斐侵攻で焼失し、廃寺となっている。『国志』によれば、諸仏を安置するための諸堂が再建されているが、平塩寺の廃寺後には集落の中心地も台地上から北の芦川沿い氾濫原の平地に移転しており、諸堂も周辺に散在している。 現存する過去帳(平塩寺過去帳)は、末寺であった市川大門の真言宗寺院である花園院に所蔵されている。これは全4冊から成り(上版1冊、中版2冊、下版1冊)で、内容は平塩寺の歴代住職や甲斐国の真言僧の人名、市河氏を甲斐源氏一族に位置付けた源氏系図(『尊卑分脈』とは異なる)などの由緒が記されている。花園院に伝来した経緯は不明だが、上版の奥書に拠れば江戸時代の寛政4年(1792年)9月に市河行光により寄進されたという。
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