平安後期とは? わかりやすく解説

平安後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 02:01 UTC 版)

平安時代」の記事における「平安後期」の解説

11世紀後期までに郡司郷司負名層が自ら墾田して領主となる開発領主登場しており、彼らは自領を権門寄進することで権利確保していった。これを寄進地系荘園という。これに対応して公領内部も郡・郷・保・条などに再編成されていった。これら荘園公領特定の領主私有地として独占的な支配権を持つのではなく支配単位ごとに上は収税をもつ朝廷権門から在地領主として地域根を下ろした武士などを経て、下は名主層に至る、複数者の権利重層的からんでいた。各主体保有する権利は「職」(しき)とよばれ、職が重層的体系をなしていたことから、これを職の体系という。そして職の体系基盤として11世紀後期から12世紀成立した体制荘園公領制という。平安後期の政治・経済史は、この荘園公領制成立深く関わっている。 11世紀中期までは摂関政治ある程度機能していたが、社会変動対応する政治的主導権摂関家天皇家では国内情勢実権掌握能力をとりえないという摂関政治欠陥露呈し機能不全に陥っていった。同後期登場した外戚藤原氏持たない後三条天皇天皇親政行い記録荘園券契所設置して実効的な荘園整理進める(延久の荘園整理令)など、当時の社会変動に伴う課題に自ら取り組んでいった。後三条天皇の子白河天皇積極的に政治取り組み退位し上皇となった後は皇室の長という立場で独自の政策展開していった。これが院政開始であり、院政を行う上皇治天の君という。白河上皇は、自らの政策企画遂行するために中流貴族院司し、また院独自の軍事力として北面武士置いたり、当時河内源氏に代わって武士の棟梁となりつつあった伊勢平氏院司としたりした。また、このころ東北地方全域日本領域組み込まれたとされている(延久蝦夷合戦)。 白河天皇に続く鳥羽上皇も、白河天皇上の専制展開した伊勢平氏実行部隊として日宋貿易力を入れたり、荘園公領制進展伴って各地荘園集積したりするなど、経済的な支配力強めていった。 12世紀に入ると、有力貴族など特定の国の租税収取保有する知行国制がひろく実施されるようになった知行国制は、荘園公領制進展と軌を一にしたものであり、経済的利得権門勢家集中していったことを表している。 12世紀中期鳥羽上皇崩御すると、治天の君の座を巡って皇室摂関家巻き込む政争起こり軍事衝突によって解決した保元の乱)。続いて数年後に再び政争軍事衝突によって終結し平治の乱)、両乱を通じて武士の政治的地位上昇した保元以前武力政争解決した事例平安初期平城上皇の変にまで遡り三百数十年ぶりの異変だったため、当時の人々大きな衝撃与えた。両乱で大きな勲功のあった平清盛異例出世遂げ後白河上皇院政支えた。しかし、次第後白河清盛との間に対立見られるようになり、清盛後白河院政を停止して、自らの政権打ち立てた。これを平氏政権という。平氏政権は、貴族社会の中で成立したが、各地地頭国守護人設置するなど最初武家政権としての性格持っていた。 平氏政権支配に対して貴族寺社層から反発出されるようになり、そうした不満を背景として治承4年1180年)に後白河皇子以仁王が反平氏兵を挙げた。この挙兵はすぐに鎮圧されたが、平家支配潜在的な不満を抱いていた各地武士豪族層が次々挙兵し平氏勢力や各地勢力の間で5年に渡る内乱繰り広げられたが、最終的に関東本拠置いた武家政権、すなわち鎌倉幕府勝利によって内乱終結した治承・寿永の乱)。この乱の過程鎌倉幕府朝廷から東国支配権軍事警察獲得し朝廷から独立した地方政権へ成長していた。鎌倉幕府の成立をもって新たな時代区分開始したとされ、この時点平安時代終期とされている。

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平安後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:00 UTC 版)

治天の君」の記事における「平安後期」の解説

応徳3年1086年)に白河天皇皇子堀河天皇譲位し院政開始した時が、治天成立だと考えられている。堀河天皇皇位ありながら政治実務白河上皇が行っていた。堀河天皇崩御してその皇子鳥羽天皇即位して白河法皇政務担った白河法皇崩御すると、崇徳天皇譲位し既に上皇となっていた鳥羽上皇治天となり、院政開始した白河法皇鳥羽法皇積極的な政策展開を行い専制的な院政典型とも、院政最盛期とも評されている。 保元元年1156年)、鳥羽天皇崩御すると、崇徳上皇後白河天皇兄弟治天の座を巡って争い後白河天皇勝利した保元の乱)。後白河天皇2年後保元3年1158年)に譲位する院政開始した平清盛による院政停止高倉院政の開始によって治天地位から追われたことがあったが、清盛の死去と高倉上皇崩御によって復活、それからは建久3年1192年)に崩ずるまで治天地位保ったさて、白河院政後期以降、院への荘園寄進が非常に集中するようになり、皇室莫大な経済基盤を得ることとなった。これらの荘園はいくつかのグループ分けられ別々に相続されていった。例としては、鳥羽天皇皇女八条院相続した荘園群である八条院領後白河長講堂という寺院寄進した長講堂領などがある。治天の君皇室当主として、これらの厖大荘園群を総括する権限有していた。

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