院政停止とは? わかりやすく解説

院政停止

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)

平頼盛」の記事における「院政停止」の解説

治承2年1178年)、中宮徳子懐妊する。『山槐記』『玉葉』を見ると徳子出産関連する行事には、平重盛・頼盛・時忠・維盛の4人が多く参仕していたことが確認できるこのうち重盛徳子養父であり、時忠維盛それぞれ中宮権大夫亮なので不思議ではない。しかし頼盛は徳子これといった関係はなく、なぜ徳子出産積極的に関わっていたのか理解に苦しむ部分がある。鹿ケ谷の陰謀衝撃冷めやらない中で、清盛疑念払拭するための必死行動とも考えられる徳子無事に皇子言仁親王、後の安徳天皇)を出産すると、清盛後白河院皇子立太子迫った春宮坊には平氏一門就任し言仁親王平氏管理下に置かれることになったため、後白河院平氏に対する不満高めることになる。 治承3年1179年)に重盛・盛子が死去すると、後白河院はその知行国荘園没収した。特に盛子は前摂政近衛基実未亡人として膨大な摂関家領を相続していたので、平氏にとっての経済的打撃甚大だった。さらに清盛支援する近衛基通ではなく関白松殿基房の子師家権中納言になったことが引き金となり、11月14日清盛クーデター起こした治承三年の政変)。この結果、基房は関白罷免され追放、反平氏公卿近臣39名が解官後白河院鳥羽殿幽閉となり院政停止された。 この時、頼盛も兼官右衛門督解官されている。20日には清盛六波羅にいる頼盛を討つという噂が広がり、すでに合戦始まったという情報飛び交っている。22日には頼盛の所領全て没収されたという情報流れた。これらは伝聞情報であり、清盛・頼盛の合戦誤報であったことが判明する所領没収に関しても、その後の展開を見ると事実かどうか疑わしい。ただ、頼盛が後白河院幽閉抗議する可能性があり、場合によっては武力対抗するではないかという観測流れていたことは確かと思われる。 しかし頼盛には清盛に逆らう意思はなく、「ナガク弓箭ノミチハステ候ヌル」と全面的な恭順誓っている。清盛武官職である右衛門督解官のみにとどめているので、頼盛の万が一妨害懸念して予防措置であったとも考えられる。頼盛は翌治承4年1180年正月には早くも出仕許された。言仁親王即位向けて一門結束図られ、頼盛も政権中枢迎え入れられる4月安徳天皇即位に伴う叙位で、頼盛は従二位叙せられた。この時、平氏一門叙位されたのが頼盛だけだったことも、政権内部において頼盛の存在重み増していたことを示すものといえる。

※この「院政停止」の解説は、「平頼盛」の解説の一部です。
「院政停止」を含む「平頼盛」の記事については、「平頼盛」の概要を参照ください。

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