院政停止
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治承2年(1178年)、中宮・徳子が懐妊する。『山槐記』『玉葉』を見ると徳子出産に関連する行事には、平重盛・頼盛・時忠・維盛の4人が多く参仕していたことが確認できる。このうち重盛は徳子の養父であり、時忠・維盛はそれぞれ中宮権大夫・権亮なので不思議ではない。しかし頼盛は徳子とこれといった関係はなく、なぜ徳子の出産に積極的に関わっていたのか理解に苦しむ部分がある。鹿ケ谷の陰謀の衝撃も冷めやらない中で、清盛の疑念を払拭するための必死の行動とも考えられる。徳子が無事に皇子(言仁親王、後の安徳天皇)を出産すると、清盛は後白河院に皇子の立太子を迫った。春宮坊には平氏一門が就任し、言仁親王は平氏の管理下に置かれることになったため、後白河院は平氏に対する不満を高めることになる。 治承3年(1179年)に重盛・盛子が死去すると、後白河院はその知行国・荘園を没収した。特に盛子は前摂政・近衛基実の未亡人として膨大な摂関家領を相続していたので、平氏にとっての経済的打撃は甚大だった。さらに清盛の支援する近衛基通ではなく、関白・松殿基房の子・師家が権中納言になったことが引き金となり、11月14日、清盛はクーデターを起こした(治承三年の政変)。この結果、基房は関白を罷免されて追放、反平氏公卿・近臣39名が解官、後白河院は鳥羽殿に幽閉となり院政は停止された。 この時、頼盛も兼官の右衛門督を解官されている。20日には清盛が六波羅にいる頼盛を討つという噂が広がり、すでに合戦が始まったという情報も飛び交っている。22日には頼盛の所領が全て没収されたという情報も流れた。これらは伝聞情報であり、清盛・頼盛の合戦は誤報であったことが判明する。所領没収に関しても、その後の展開を見ると事実かどうか疑わしい。ただ、頼盛が後白河院の幽閉に抗議する可能性があり、場合によっては武力で対抗するのではないかという観測が流れていたことは確かと思われる。 しかし頼盛には清盛に逆らう意思はなく、「ナガク弓箭ノミチハステ候ヌル」と全面的な恭順を誓っている。清盛も武官職である右衛門督の解官のみにとどめているので、頼盛の万が一の妨害を懸念しての予防措置であったとも考えられる。頼盛は翌治承4年(1180年)正月には早くも出仕を許された。言仁親王即位に向けて一門の結束が図られ、頼盛も政権中枢に迎え入れられる。4月の安徳天皇即位に伴う叙位で、頼盛は従二位に叙せられた。この時、平氏一門で叙位されたのが頼盛だけだったことも、政権内部において頼盛の存在が重みを増していたことを示すものといえる。
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