平氏に対する不満とは? わかりやすく解説

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平氏に対する不満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:11 UTC 版)

平清盛」の記事における「平氏に対する不満」の解説

詳細は「鹿ケ谷の陰謀」および「治承三年の政変」を参照 ところが、この清盛勢力伸張に対して後白河法皇はじめとする院政勢力次第不快感を持つようになり、安元2年1176年)の建春門院の死を契機に、清盛対立深めていく。 治承元年1177年6月鹿ケ谷の陰謀が起こる。これは多田行綱密告露見したが、これを契機清盛院政における院近臣排除を図る。西光処刑とし、藤原成親重盛悲願によって死罪免れ備前国流罪俊寛らは鬼界ヶ島流罪処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。ただし、実際に平氏打倒陰謀あったか不明であり、直前後白河法皇から延暦寺攻撃命じられ清盛が、延暦寺との衝突回避するために行ったとする見方もある。 治承3年1179年6月、娘の盛子が死亡。すると法皇直ちに盛子の荘園清盛無断没収した。(近衛基実正室は盛子であったため、基実の死後領地所有していた。)さらに7月重盛42歳病死。するとまた、後白河法皇重盛知行国であった越前国没収した。さらに、法皇20歳近衛基通(室は清盛女・完子)をさしおいて8歳松殿師家権中納言任じたこの人事によって摂関家嫡流地位松殿家継承することが明白となり、近衛家支援していた清盛憤慨する11月14日清盛福原から軍勢率いて上洛し、クーデター決行したいわゆる治承三年の政変であるが、清盛松殿基房師家父子手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿院近臣貴族8名、殿上人受領検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家任官する後白河法皇恐れ覚えて清盛許しを請うが、清盛はこれを許さず11月20日には鳥羽殿幽閉するいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。清盛は、後の処置宗盛委ね福原引き上げた。しかし、院政停止後の政権構想拙いものであった高倉天皇近衛基通平宗盛三人はいずれ政治的経験未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた平頼盛花山院兼雅処分解除するなど一門結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏有力者である左大臣藤原経宗右大臣九条兼実懐柔図った実際政務に関しては、平時忠四条隆季土御門通親などの能吏清盛代弁者となった治承4年1180年2月高倉天皇譲位言仁親王践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上高倉上皇院政であったが、平氏傀儡政権であることは誰の目にも明らかであった。さらに、法皇幽閉して政治実権握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになった

※この「平氏に対する不満」の解説は、「平清盛」の解説の一部です。
「平氏に対する不満」を含む「平清盛」の記事については、「平清盛」の概要を参照ください。

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