平正盛による追討
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平維衡を祖とする伊勢平氏は伊勢国に地盤を持った武士で、中央では検非違使などとして朝廷の武力として活動していたが、さほど目立った存在ではなかった。隠岐守だった平正盛は永長元年(1096年)に白河法皇の皇女媞子内親王を弔う六条院の御堂に伊勢の所領を寄進し、それを期に若狭守に転じ、法皇から目をかけられるようになっていた。 嘉承2年(1107年)12月19日、因幡守だった正盛は、依然として出雲で横行する義親の追討使に任じられた。出陣にあたり正盛は京都にあった義親の邸宅に向かって三度、鬨の声をあげ、三度、鏑矢を放って出立した(『源平盛衰記』)。 翌天仁元年(1108年)正月6日、正盛の軍は出雲国へ到着。そして、同月19日、はやくも正盛から義親と従類5人の首を切ったとの戦勝報告が京都へ入った。こうして、義親の乱はあっけなく鎮圧された。 合戦の経過は詳らかではないが、鎌倉時代末期成立の『大山寺縁起』によると、義親は蜘戸(雲津浦)に城を築いて立てこもり、正盛は因幡伯耆出雲三カ国の軍勢を率いて海を渡り、山を越えて、攻め立て、遂に義親を討ち取ったとある。 法皇はこれを喜び、異例にも正盛の帰還を待たずに行賞を行った。正盛は但馬守、子の盛康は右兵衛尉、盛長は左兵衛尉に任じた。当初の公卿の会議では正盛に対しては本人が上洛する前でも早急に恩賞を授ける方針であったが、実際には上洛後に手柄を審査した上で恩賞を授ける予定であった正盛の子供や郎党にも直ちに恩賞が与えられた。当時の公家の日記『中右記』は「最下品の者が、第一国に任じられたのは院に近侍しているからだろう」との世評を載せている。 正月29日、正盛は京都へ帰着。義親ら討ち取った者たちの首を掲げて行列を組んで堂々と凱旋した。京の貴賤の人々はこれを見ようと大騒ぎになり、法皇まで車を出して見物に来た。義親の首は七条河原で検非違使に渡され、梟首となった。
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