平正盛による追討とは? わかりやすく解説

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平正盛による追討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 16:15 UTC 版)

源義親の乱」の記事における「平正盛による追討」の解説

平維衡を祖とする伊勢平氏伊勢国地盤持った武士で、中央では検非違使などとして朝廷武力として活動していたが、さほど目立った存在ではなかった。隠岐守だった平正盛永長元年1096年)に白河法皇皇女媞子内親王弔う六条院御堂伊勢所領寄進し、それを期に若狭守に転じ法皇から目をかけられるようになっていた。 嘉承2年1107年12月19日因幡守だった正盛は、依然として出雲横行する義親追討使任じられた。出陣にあたり正盛は京都にあった義親邸宅向かって三度鬨の声をあげ、三度鏑矢放って出立した『源平盛衰記』)。 翌天仁元年1108年正月6日、正盛の軍は出雲国到着。そして、同月19日はやくも正盛から義親従類5人の首を切ったとの戦勝報告京都入った。こうして、義親の乱はあっけなく鎮圧された。 合戦の経過詳らかではないが、鎌倉時代末期成立の『大山寺縁起』によると、義親は蜘戸(津浦)に城を築いて立てこもり、正盛は因幡伯耆出雲三カ国の軍勢率いて海を渡り、山を越えて攻め立て遂に義親討ち取ったとある。 法皇はこれを喜び異例にも正盛の帰還待たず行賞行った。正盛は但馬守、子の盛康は右兵衛尉、盛長は左兵衛尉任じた当初公卿会議では正盛に対して本人上洛する前でも早急に恩賞授け方針であったが、実際に上洛後手柄審査した上で恩賞授け予定であった正盛の子供や郎党にも直ち恩賞与えられた。当時公家日記中右記』は「最下品の者が、第一国に任じられたのは院に近侍しているからだろう」との世評載せている。 正月29日、正盛は京都帰着義親討ち取った者たちの首を掲げて行列組んで堂々と凱旋した。京の貴賤人々はこれを見よう大騒ぎになり、法皇まで車を出して見物に来た。義親の首は七条河原検非違使渡され梟首となった

※この「平正盛による追討」の解説は、「源義親の乱」の解説の一部です。
「平正盛による追討」を含む「源義親の乱」の記事については、「源義親の乱」の概要を参照ください。

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