後白河法皇 (ごしらかわほうおう)
後白河天皇
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後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日〈大治2年9月11日〉[1] - 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉[2])は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)。諱は雅仁(まさひと)。
注釈
- ^ 宇多天皇女御・藤原胤子、三条天皇皇后・藤原娍子以来。
- ^ 「見存の父を置きながら、其の子即位の例なし」[5]
- ^ 佐伯智広は雅仁親王が次の天皇に選ばれた理由として、①雅仁親王を飛ばして守仁親王を即位させた場合、守仁の成人前に鳥羽法皇が崩御すると崇徳上皇が治天になる可能性が浮上して幼少の守仁では上皇に対抗することが困難になること。②守仁が将来「雅仁(後白河天皇)の子」として即位すれば雅仁を介して待賢門院(璋子)からその所生の子女に渡った皇室領を継承できるが、「鳥羽法皇(と美福門院)」の子として即位すれば、待賢門院―雅仁親王との血縁関係を否認することになるため、その所領を継承する可能性を失うこと(天皇への皇室領の回復が困難)になる。以上の2点から、守仁の地位の安定化のために父である雅仁の即位を必要としたとする[6]。
- ^ ただし、河内祥輔のように平治の乱を後白河の了解の下に藤原信頼ら院近臣が鳥羽法皇の意向の執行者であった信西を排除して名実ともに治天の権限を獲得しようとしたものであったが、三条公教らによって切り崩された経宗・惟方らが離反したことにより、六波羅に退避した二条を中心とした一種の「逆クーデター」が発生した結果、信頼らは討たれて失敗に終わったとする見解がある[8]。
- ^ 『愚管抄』には「ナクナク仰有ケレバ(泣いて頼み込んだ)」とあり、実際には平身低頭に近かったと思われる。
- ^ 寛平御遺誡には「外蕃之人必可召見者。在㆓簾中見之。不可直對耳。李環朕已失之。(異国の者と会う時に直接会ってはならず、必ず御簾の中から見るようにしなさい。直接会話してはならない。李環と会ったことは朕の誤りであった)」とあり、厳密には外国人との面会そのものを禁じた文言ではない。ただし、平安時代後期以降には宇多の子である醍醐天皇が、高麗の占い師を宮中に入れて占わせたという話が広まっており、『古事談』ではこの際に醍醐天皇の声が小さいことを国情に合うと評されたという逸話とされている。このため宇多の遺誡は宮中に外国人を入れること自体を禁じたものとされていた[21]
- ^ 『百錬抄』は藤原俊盛邸、『玉葉』は藤原季能邸とする
- ^ これは左大史・小槻隆職が左少弁・藤原行隆から聞いた内密の話を、隆職が兼実の邸を訪問した際に語ったものである。「天下の事、偏に前幕下の最なり。異論あるべからず」は清盛の発言とするのが一般的な解釈であるが、この発言の前に「行隆を召し仰せて云はく」という記述がある。その丁寧な語法から、行隆を召してこの発言をしたのは後白河であるという説がある[70]。
- ^ 『梁塵秘抄』「四句神歌」に「滝は多かれどうれしやとぞ思ふ、鳴る滝の水、日は照るとも絶えでとうたへ、やれことつとう(滝は多いけれども嬉しいと思うよ、鳴りとどろくこの滝を見て。たとえ日が照りつけても水の流れは絶え尽きない。ヤレコトットウ)」という祝言歌がある。
- ^ 『明月記』3月15日条に「今日初めて院并に八条院に参ず。八条殿におはします」、同12月13日条に「上皇新造御所に御移徙。八条院同じく渡りおはします」と記されている。
- ^ 『玉葉』8月18日条には丹後局の意見によるとされる。三宮(惟明親王)が円恵法親王らを生んだ坊門局の姪孫(姉妹の外孫)であったことも影響した可能性がある。
- ^ 義仲の動向を気にする八条院に、後白河は「木曾は何とかは知らん(木曾など問題ではない)」[92]と語っている。
- ^ 『吾妻鏡』元暦元年8月17日条は、自由任官問題により頼朝・義経の関係が悪化したという記事だが、「義経が勝手に検非違使に任官したため、頼朝が激怒して追討使から外した」と説明するのはこの記事だけで、同時代の記録には見られず、『平家物語』諸本でも「延慶本」「長門本」「四部本」では、単に範頼・義経の任官記事を一括記載するのみで、義経が自由任官をしたと書いているのは『源平盛衰記』しかないことから、その信憑性に疑問が投げかけられている[117]。義経が京都に留まることを余儀なくされたため、追討計画の変更を迫られたことが、頼朝が機嫌を損ねた原因であるという説もある[118]
- ^ 院御厩司は牛馬の管理・御幸の警護を行う院の武力組織の中核であり、院の親衛隊長ともいえる地位だった。頼朝は国家的武力を独占することを志向しており、義経の院御厩司就任に警戒心を抱いたのではないかという説もある[118]。
- ^ 該当の表現は『玉葉』文治元年11月26日条、『吾妻鏡』文治元年11月15日条の頼朝の高階泰経宛て書状の文面に見られる。「大天狗」は頼朝が後白河を評した言葉として理解されてきたが、河内祥輔・遠城悦子らは、この書状が院宣ではなく泰経の私信に対する返書であることを理由に「大天狗」は泰経を指すとし[142]、五味文彦・保立道久らも賛同した。しかし院の意向を知らせる他の書状も泰経私信の形式を取っていること、書状を届けた使者が泰経私邸ではなく院御所を訪ねていること、泰経個人への単なる私信にしては言葉遣いが丁寧すぎること、書状の内容をよく読むと頼朝の反論の論理構成から泰経を「大天狗」と呼んでいるとは解釈できないことなどから、やはりこの表現は泰経個人ではなく後白河を評したものであろうという反論が川合康などから出ている。なお永井路子は「大天狗」とは頼朝に対する院側の評語「天魔の所為」に対する頼朝側の対抗的な揶揄であろうとし、橋本義彦は成り上がりの近臣・泰経を「日本国第一の大天狗」とするのは買いかぶりであり、後白河を指したとするのが自然であるとした[143]。また菱沼一憲は「大天狗」を行家・義経とみなす説を提唱した[144]が、これについても後白河の弁明は「行家・義経の謀反は、人間(この世のもの)には責任がない」というものだから成り立たないとの批判がある[145]。
- ^ この「守護地頭」については、石母田正が「一国地頭職」の概念[147]を提唱してから多くの議論が展開され、現在ではこの「守護地頭」は鎌倉時代に一般的だった大犯三ヶ条を職務とする守護、荘園・公領に設置された地頭ではなく、段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限を持つ「国地頭」であるとする説が有力となっている[148]。
- ^ 京極殿領・高陽院領については藤原忠実を参照のこと。
- ^ 藤原師長については、彼が亡き父・頼長に代わって忠通流(近衛基実・松殿基房・九条兼実ら)から摂関の地位を取り戻そうと暗躍しており、後白河法皇はその野心を断念させるために太政大臣に任命したという政治的理由を説く研究者もいる[196]。
- ^ 『本朝皇胤紹運録』では平信業の女とするが、平信業は保延4年(1138年)生まれであるため誤り。
- ^ 後三条天皇の第三皇子輔仁親王の子。
- ^ 『玉葉』寿永3年2月2日条に記載される人物で、伯耆国において反平氏の軍事行動を展開し、後に後白河院より平氏追討の命を受けたともされる。
出典
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後白河法皇
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後白河法皇
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清盛死後に初登場。清盛存命中も形式上の最高権力者であり続けた。清盛からの見舞いの催促ものらりくらりと断り続ける。清盛の死を報告に来た宗盛の器量を即座に見抜き、平家を見限ることを決断するなど、政治力に長けた老獪な政治家として登場。義仲が入京すると御しやすい山猿として蔑んでいたが武力に任せて専横を増す義仲と対立するようになり僧兵などを使い武力衝突を起こすも、すぐさま敗れ、渋々頼朝追討の宣旨を出さざるを得なくなる。義仲を追い落とすために義経に接近し取り込もうとするがそれが原因で義経と頼朝の間に不和が生じることになる。最終的に義経がいなくなってしまったことで、頼朝に対抗する力を失ってしまい失意のうちに亡くなる。
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後白河法皇(ごしらかわほうおう)
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「源氏 (漫画)」の記事における「後白河法皇(ごしらかわほうおう)」の解説
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後白河法皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 10:02 UTC 版)
※この「後白河法皇」の解説は、「義経英雄伝」の解説の一部です。
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