藤原隆方とは? わかりやすく解説

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藤原隆方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 16:29 UTC 版)

 
藤原 隆方
時代 平安時代中期-後期
生誕 長和3年(1014年
死没 承暦2年12月(1079年
官位 正四位上但馬守
主君 後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原隆光、母:源国挙の娘
兄弟 隆経、隆方、隆成、隆清、林慶、教意
平行親の娘
為房、家実、隆忠、光清、林昭、猷乗、光子藤原公実室、康資王室、藤原仲実[注釈 1]
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藤原 隆方(ふじわら の たかかた)は、平安時代中期から後期にかけての貴族藤原北家勧修寺流備中守藤原隆光の次男。官位正四位上但馬守

経歴

春宮・親仁親王の春宮蔵人や右衛門少尉を経て、寛徳2年(1045年)親仁親王の即位後冷泉天皇)に伴って六位蔵人に任ぜられる。翌寛徳3年(1046年)2月に従五位下周防守に叙任されるが、7月には中宮権大進を兼ねており、周防守は遙任で務めたか。

その後、中宮権大進として後冷泉天皇の中宮章子内親王に仕えたほか、右衛門権佐や五位蔵人を務める一方、永承6年(1051年)従五位上、永承7年(1052年正五位下康平2年(1059年)正五位上と昇進する。康平6年(1063年従四位下備後守に叙任されて地方官に転じるが、治暦元年(1065年)には右中弁として京官に復し、治暦3年(1067年興福寺供養日行事賞により従四位上に叙せられた。

後三条朝に入っても、延久元年(1069年正四位下・権左中弁と要職の弁官を務めながら順調に昇進を続けた。しかし、延久4年12月(1073年)に正左中弁の座が空くと、本来であれば権左中弁の隆方が順送り人事で昇進すべき所、同じ正四位下の位階にあったが弁官の経験がない東宮学士藤原実政が抜擢される。これは、後三条天皇が春宮であったころ、木津の渡しで隆方が実政に対してなかなか天皇になれない春宮に当てこすった侮辱をしたことがあり、それを覚えていた後三条天皇は隆方を越えて敢えて実政を正左中弁に任じたとされる[1]

白河朝に入り、承保2年(1075年)実政が右大弁に昇ると、ようやく隆方も後任の左中弁に昇格する。承保4年(1077年)正月に正四位上に昇叙されるが、10月には但馬守として地方官に転じ、翌承暦2年12月(1079年)に卒去享年65。

官歴

『弁官補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

注釈

  1. ^ 藤原南家永業(永頼孫)の男。

出典

  1. ^ 『今鏡』すべらぎの上 第一 司召
  2. ^ 『大記』承暦3年正月9日条

参考文献




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