藤原隆房とは? わかりやすく解説

藤原隆房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/09 05:52 UTC 版)

 
藤原 隆房
四条隆房朝臣(承安五節絵より)
時代 平安時代末期-鎌倉時代初期
生誕 久安4年(1148年
死没 承元3年(1209年
改名 隆房→寂恵(法名)
別名 四条隆房冷泉隆房
官位 正二位権大納言
主君 二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇
氏族 藤原北家魚名流
父母 父:藤原隆季、母:藤原忠隆の娘
兄弟 隆房隆保、隆雅 ほか
正室:平清盛の娘
後鳥羽院女房右衛門佐
高階泰経の娘
葉室光雅の娘
隆衡、隆宗、隆重、僧隆弁 ほか
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藤原 隆房(ふじわら の たかふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿藤原北家善勝寺流権大納言藤原隆季の長男。官位正二位権大納言四条家2代。四条隆房、邸宅が冷泉万里小路にあったことから冷泉隆房とも。

経歴

保元3年(1158年)に従五位下に叙爵。以後加賀国因幡国国司右近衛中将・左近衛中将・蔵人頭などを歴任し、元暦元年(1184年)に従三位に叙せられる。文治5年(1189年)に権中納言正治元年(1199年)に中納言・正二位、元久元年(1204年)には権大納言に至る。建永元年(1206年)に出家し引退。法名は寂恵

承元3年(1209年)薨去、享年62[1]

人物

平清盛の娘を正室とした関係から平家一門と親しく、平家没落の後も建礼門院を庇護した。その一方で後白河法皇院近臣としても名高く、平家の衰退と関わりなく政治上の発言権を保ち続けた。

政界遊泳に長けていたばかりでなく、歌人としても存在感を発揮し、『千載集』以下の勅撰和歌集に34首が入選している他、家集『隆房集』を残している[1]。近年では『朗詠百首』の作者にも擬せられている。日記として『安元御賀日記』を書き遺しており、また『平家物語』における小督局との恋愛譚もよく知られている。

子孫は羽林家の一つ四条家として繁栄し、現代に至るまで続いている。

官歴

公卿補任』による

系譜

注釈

  1. ^ a b 犬養, 廉 編『和歌大辞典』明治書院、東京都千代田区神田錦町1-16、1986年3月20日、616頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12450422/12025年11月9日閲覧 
  2. ^ a b c d e f 公卿補任
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 尊卑分脈




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