藤原隆房
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四条隆房朝臣(承安五節絵より)
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| 時代 | 平安時代末期-鎌倉時代初期 |
| 生誕 | 久安4年(1148年) |
| 死没 | 承元3年(1209年) |
| 改名 | 隆房→寂恵(法名) |
| 別名 | 四条隆房、冷泉隆房 |
| 官位 | 正二位、権大納言 |
| 主君 | 二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
| 氏族 | 藤原北家魚名流 |
| 父母 | 父:藤原隆季、母:藤原忠隆の娘 |
| 兄弟 | 隆房、隆保、隆雅 ほか |
| 妻 | 正室:平清盛の娘 後鳥羽院女房右衛門佐 高階泰経の娘 葉室光雅の娘 |
| 子 | 隆衡、隆宗、隆重、僧隆弁 ほか |
藤原 隆房(ふじわら の たかふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家善勝寺流、権大納言・藤原隆季の長男。官位は正二位・権大納言。四条家2代。四条隆房、邸宅が冷泉万里小路にあったことから冷泉隆房とも。
経歴
保元3年(1158年)に従五位下に叙爵。以後加賀国・因幡国の国司や右近衛中将・左近衛中将・蔵人頭などを歴任し、元暦元年(1184年)に従三位に叙せられる。文治5年(1189年)に権中納言、正治元年(1199年)に中納言・正二位、元久元年(1204年)には権大納言に至る。建永元年(1206年)に出家し引退。法名は寂恵。
人物
平清盛の娘を正室とした関係から平家一門と親しく、平家没落の後も建礼門院を庇護した。その一方で後白河法皇の院近臣としても名高く、平家の衰退と関わりなく政治上の発言権を保ち続けた。
政界遊泳に長けていたばかりでなく、歌人としても存在感を発揮し、『千載集』以下の勅撰和歌集に34首が入選している他、家集『隆房集』を残している[1]。近年では『朗詠百首』の作者にも擬せられている。日記として『安元御賀日記』を書き遺しており、また『平家物語』における小督局との恋愛譚もよく知られている。
子孫は羽林家の一つ四条家として繁栄し、現代に至るまで続いている。
官歴
『公卿補任』による
- 時期不詳:叙爵(従五位下)
- 永暦元年(1160年) 2月28日:加賀守
- 応保元年(1161年) 10月19日:遷因幡守
- 応保3年(1163年) 正月5日:従五位上
- 長寛3年(1165年) 正月23日:兼左兵衛権佐
- 仁安元年(1166年) 6月6日:右近衛少将
- 仁安3年(1168年) 正月5日:正五位下。11月20日:従四位下
- 承安2年(1172年) 正月19日:従四位上
- 承安4年(1174年) 正月5日:正四位下
- 治承3年(1179年) 11月17日:転右近衛中将
- 寿永2年(1183年) 正月22日:遷左近衛中将、蔵人頭。8月20日:新帝蔵人頭。12月10日:参議、兼右兵衛督
- 寿永3年(1184年) 3月27日:兼加賀権守
- 元暦元年(1184年) 7月24日:従三位
- 文治2年(1186年) 12月15日:転左兵衛督
- 文治3年(1187年) 9月24日:検非違使別当
- 文治5年(1189年) 正月6日:正三位。正月18日:伊予権守。7月10日:権中納言
- 建久元年(1190年) 7月18日:右衛門督
- 建久4年(1193年) 12月9日:転左衛門督
- 建久6年(1195年) 正月5日:従二位
- 正治元年(1199年) 6月22日:転中納言。11月27日:正二位
- 元久元年(1204年) 正月13日:還中納言。3月6日:権大納言
- 建永元年(1206年) 6月23日:出家(法名寂恵)
系譜
- 父:藤原隆季[2][3]
- 母:藤原忠隆の娘[2][3]
- 正室:平清盛の娘(?-1200)[2][3]
- 妻:後鳥羽院女房右衛門佐
- 妻:高階泰経の娘[3]
- 男子[3]:四条季房
- 妻:葉室光雅の娘
- 生母不明
注釈
固有名詞の分類
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