四条隆昌とは? わかりやすく解説

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四条隆昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 04:51 UTC 版)

 
四条隆昌
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治2年(1556年
死没 慶長18年5月12日1613年6月29日
改名 家賢→四条隆昌
別名 三位中将
戒名 快養院観誉隆昌
墓所 上善寺
官位 正四位下左近中将
主君 正親町天皇後陽成天皇
氏族 上冷泉家→月輪家→四条家
父母 父:冷泉為益
養父:四条隆益
兄弟 山科言経室、隆昌冷泉為満、御春、祐心尼
養兄弟:隆憲[1]
御茶々→磯部兵部大輔娘→恵光寺良恵娘
女子、弥々、御テテ
藤谷為賢室、本多美濃守室、小上﨟、隆術
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四条 隆昌(しじょう たかまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿権中納言冷泉為益の長男。官位左近中将四条家15代当主。

経歴

初め二条家諸大夫月輪家を相続し名を家賢といった。

天正3年(1575年)3月、前当主・四条隆益が死去し中絶していた四条家を再興し、名を隆昌と改めた。天正8年(1580年)1月に従四位下となったが、勅勘を蒙り摂津国に出奔した。その間、正親町三条公兄の孫の隆憲、次いで隆致が四条家に迎えられている。しかし隆昌は、慶長6年(1601年)5月、徳川家康の奏請により、勅免出仕し四条家に戻った。このため当時四条家を継いでいた隆致の子・隆朝は別家を立て櫛笥家と称した。

慶長18年(1613年)5月12日、薨去。享年88。

系譜

  • 父:冷泉為益
  • 母:不詳
  • 養父:四条隆益
  • 妻:御茶々(三河御局) - 長谷玄孝法眼女、もと一色昭孝室、唐橋在通母、のち朝日姫に侍する乳人
  • 妻:磯部兵部大輔女(?-1594)
    • 女子(1591-1593) - 3歳で死去、法名は玉仏房
    • 女子:弥々
  • 妻:恵光寺良恵女 - 本願寺門跡一族
    • 女子:御テテ
  • 生母不明の子女

脚注

  1. ^ (-1591)、正親町三条公兄の孫

参考文献

  • 橋本政宣 編『公家事典』吉川弘文館、2010年3月。ISBN 978-4-642-01442-7 
  • 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年9月。 ISBN 4-490-20243-1 
  • 東京大学史料編纂所 編『言経卿記』 14巻、岩波書店〈大日本古記録〉、1991年、118-119頁。 



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