四条隆衡
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『中殿御会図』より
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時代 | 平安時代末期-鎌倉時代前期 |
生誕 | 承安2年(1172年) |
死没 | 建長6年12月18日(1255年2月3日) |
改名 | 長雅→藤原隆衡→四条隆衡 |
別名 | 鷲尾大納言、按察入道 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 藤原北家魚名流、四条家 |
父母 | 父:藤原隆房、母:平清盛の娘 |
兄弟 | 隆衡、隆宗、隆重 ほか |
妻 | 妾:高階経仲の娘(家女房)、坊門信清の娘 |
子 | 隆綱、貞子、隆親、隆盛 ほか |
四条 隆衡(しじょう たかひら、藤原 隆衡(ふじわら の たかひら))は、鎌倉時代の公卿。藤原北家魚名流、大納言藤原隆房の長男。元名は長雅。官位は正二位・権大納言。善勝寺長者(四条家当主)。鷲尾大納言といわれる。
経歴
祖父隆季、父隆房は後白河法皇の近臣であり、また、平家とも近しい間柄にあった。隆衡の母は平清盛の女であり、隆衡は平清盛の外孫にあたる。安元2年(1176年)従五位下に叙爵。将軍源実朝の正室(坊門信清の女)の姉妹を妻とし、平家没落後も昇進を重ねた。その一方で、平知盛の正室で守貞親王の乳母であった治部卿局を引き取っているが、承久3年(1221年)に親王の子である後堀河天皇が即位したことで、守貞親王の縁者であった隆衡の一族も重用されることになった。
建仁元年(1201年)8月に蔵人頭、建仁2年(1202年)に参議、建保2年(1214年)正二位、承久元年(1219年)権大納言となる。安貞元年(1227年)出家。
建長6年12月18日(1255年1月27日)、83歳で薨去。
官歴
注釈のないものは『公卿補任』による
- 安元2年(1176年) 正月5日:叙爵(従五位下)
- 元暦元年(1184年) 10月6日:従五位上
- 文治3年(1187年) 5月4日:侍従
- 建久元年(1190年) 正月6日:正五位下
- 建久2年(1191年) 2月1日:兼阿波権介
- 建久6年(1195年) 3月7日:従四位下。7月16日:右馬頭
- 建久8年(1197年) 4月20日:従四位上
- 建久9年(1198年) 11月25日:正四位下
- 建久10年(1199年) 3月23日:兼但馬介、遷左馬頭
- 建仁元年(1201年) 正月29日:兼内蔵頭。8月19日:蔵人頭
- 建仁2年(1202年) 7月23日:参議
- 建仁3年(1203年) 正月13日:兼伊予権守。10月24日:従三位
- 元久2年(1205年) 正月19日:正三位
- 元久3年(1206年) 2月22日:兼右衛門督、検非違使別当
- 承元元年(1207年) 10月29日:権中納言
- 建暦元年(1211年) 3月23日:従二位
- 建暦2年(1212年) 6月29日:転中納言
- 建保2年(1214年) 2月14日:正二位
- 建保5年(1217年) 正月28日:大宰権帥
- 建保7年(1219年) 3月4日:権大納言
- 貞応元年(1222年) 4月13日:按察使
- 嘉禄3年(1227年) 9月某日:出家
- 建長6年(1255年) 12月18日[1]:薨去(享年83)
系譜
参考文献
- 井上宗雄『増鏡(中)』、講談社(講談社学術文庫)、1983年
- 角田文衛『平家後抄(下)』、講談社(講談社学術文庫)、2000年
- 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』、東京堂出版、1994年
脚注
- 四条隆衡のページへのリンク