藤原仲実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/18 13:56 UTC 版)
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 康平7年(1064年) |
死没 | 保安2年12月23日(1122年2月1日) |
別名 | 桟敷または高松 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 白河天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流 |
父母 | 父:藤原実季、母:藤原睦子(藤原経平の娘) |
兄弟 | 公実、保実、仲実、苡子 |
妻 | 藤原顕季の娘、藤原惟綱の娘 |
子 | 実衡、公頼、藤原実隆室、季輔、季重、季兼、実命、円良、藤原宗能室 |
藤原 仲実(ふじわら の なかざね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院流、大納言・藤原実季の三男[1]。官位は正二位・権大納言。鳥羽天皇の外伯父。桟敷または高松を号す。
経歴
白河朝の承保3年(1076年)侍従に任官。永保元年(1081年)頃に従四位下・左近衛少将に叙任されると、応徳元年(1084年)従四位上、応徳3年(1086年)右近衛中将、応徳4年(1087年)正四位下と近衛次将を務めながら順調に昇進する。寛治5年(1091年)正月に媞子内親王(堀河天皇の准母)が中宮に立てられると中宮権亮を兼ね、まもなく蔵人頭に補せられ、翌寛治6年(1092年)参議に任ぜられて公卿に列した。
議政官の傍らで引き続き近衛中将を兼帯し、嘉保3年(1096年)従三位、永長2年(1097年)正三位と昇叙されている。康和4年(1102年)従二位・権中納言に叙任された。康和5年(1103年)正月に正二位に叙せられるが、まもなく妹で堀河天皇の女御であった藤原苡子が宗仁親王を産む。同年8月に宗仁親王は春宮に立てられ、嘉承2年(1107年)即位(鳥羽天皇)したため、兄の権大納言・藤原公実とともに仲実は天皇の外伯父となるが、特別な昇進に与ることはなかった。永久3年(1115年)権大納言に至る。
保安2年(1121年)腫瘍を病み、12月4日に辞職すると、7日に出家し、23日に薨去した。享年58。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
- 日付不詳:従五位下
- 承保3年(1076年) 12月:侍従
- 承暦2年(1078年) 正月5日:従五位上(侍従労)、兼丹後守(別功)
- 時期不詳:重任。正五位下。左近衛少将
- 永保元年(1081年) 正月5日:従四位下(陽明門院治暦四年御給)[2]。
- 応徳元年(1084年) 日付不詳:従四位上[2]
- 応徳2年(1085年) 2月15日:兼備中守[3]
- 応徳3年(1086年) 11月20日:右近衛中将[2]
- 応徳4年(1087年) 正月5日:正四位下(院当年御給)[2]
- 寛治5年(1091年) 正月22日:兼中宮権亮(媞子内親王立后日)。正月28日:蔵人頭(頭中将)、止守。12月24日:服解(父)[2]
- 寛治6年(1092年) 3月25日:復任[4]。4月26日:参議、中将如元
- 寛治7年(1093年) 2月5日:兼播磨権守[4]
- 嘉保3年(1096年) 正月5日:従三位(去寛治元年大嘗会主基国司賞、備中守)[4]
- 永長2年(1097年) 正月29日:止権守[2]。4月26日:正三位(祇園行幸行事賞)[4]
- 承徳2年(1098年) 正月27日:兼備中権守[2]
- 康和4年(1102年) 正月23日:権中納言[4]。3月20日:従二位(御賀院司賞)
- 康和5年(1103年) 正月2日:正二位(行幸鳥羽院院司賞)
- 永久3年(1115年) 4月28日:権大納言
- 保安2年(1121年) 12月4日:辞職(依二禁)。12月7日:出家。12月23日:薨去
系譜
脚注
参考文献
固有名詞の分類
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