後白河法皇への抗議とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 後白河法皇への抗議の意味・解説 

後白河法皇への抗議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:39 UTC 版)

源義仲」の記事における「後白河法皇への抗議」の解説

義仲出陣入れ替わるように、朝廷頼朝申状が届く。内容は「平家横領神社仏寺領の本社への返還」「平家横領院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々申状義仲等に斉しからず」 と朝廷大い喜ばせるものであった10月9日法皇頼朝本位復して赦免14日には寿永二年十月宣旨下して東海東山両道諸国事実上支配権与える。 義仲は、西国苦戦続けていた。閏10月1日水島の戦いでは平氏軍惨敗し、有力武将の矢田義清海野幸広を失う。戦線膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった。驚いた義仲平氏との戦い切り上げて15日少数軍勢帰京する20日義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝宣旨下したことを挙げ、「生涯遺恨」であると後白河院激烈な抗議をした。義仲は、頼朝追討宣旨ないし御教書発給志田義広平氏追討使への起用要求する義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝変わっていた。19日源氏一族会合では法皇奉じて関東出陣するという案を出し26日には興福寺衆徒頼朝討伐の命が下された。しかし、前者は行家、土岐長の猛反対で潰れ、後者衆徒承引しなかった。義仲指揮にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和公然のものだった

※この「後白河法皇への抗議」の解説は、「源義仲」の解説の一部です。
「後白河法皇への抗議」を含む「源義仲」の記事については、「源義仲」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「後白河法皇への抗議」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「後白河法皇への抗議」の関連用語

1
6% |||||

後白河法皇への抗議のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



後白河法皇への抗議のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの源義仲 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS