後白河法皇の承安本『後三年絵』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 01:25 UTC 版)
「奥州後三年記」の記事における「後白河法皇の承安本『後三年絵』」の解説
平安時代末期の承安元年(1171年)、平治の乱から約10年、平清盛の娘を中宮とする高倉天皇の即位後、後白河院が出家して法皇となった後に、後白河法皇が静賢法印に命じ、絵師明実の筆による4巻の絵巻を制作させたことが知られる。それを記した吉田経房の日記『吉記』承安4年(1174年)3月17日条には、「義家朝臣為陸奥守之時、與彼国住人武衡家衡等合戦絵也」とある。 静賢法印は平治の乱で源義朝に殺害された信西(藤原通憲)の子で、後白河院の信任を得て蓮華王院(三十三間堂)執行(寺院総括者・上座)を任じられ、『後三年絵』を始めとした絵巻に関与した。以下これを現存貞和本『後三年合戦絵詞』と区別するため、以降承安本『後三年絵』と記す。 この蓮華王院の承安本『後三年絵』の存在は思わぬところにもうひとつの傍証があった。武蔵国の秩父、阿久原牧を管理していた有道一族が、武蔵七党のひとつ、児玉党の長となるが、その庶流に、源頼朝の御家人となった小代氏がいる。鎌倉時代後半に、その小代伊重が残した子孫への置き文が伝わっており、その中に、鎌倉時代の初めの頃、当時京都守護であった平賀朝雅とその一行が、蓮華王院の宝蔵に秘蔵されていた絵巻を見せてもらったとある(後述)。 この後白河法皇が作らせた絵巻は、後年、文安元年(1444年)に中原康富(やすとみ)が、伏見宮貞常親王の伏見殿に行った折り、御室(仁和寺)宝蔵から取り寄せた『後三年絵』という4巻からなる絵巻を見せてもらい、康富はそこで見た絵巻の粗筋を、漢文で日記に記した。(『康富記』閏6月23日条) 現存する『奥州後三年記』『後三年合戦絵詞』ともに欠けている部分、例えば清原真衡の死と、その後の清原清衡と異父弟・清原家衡の衝突の経緯などを、この「康富記」から知ることが出来る。例えば清原真衡の死については、「此間真衡於出羽発向之路中侵病頓死了」とある。 この承安本『後三年絵』は現存しないが、しかし『康富記』の内容から、現存する貞和本『後三年合戦絵詞』は、源義家に関わる説話の増補が想定されるとはいえ、基本的には承安本『後三年絵』とほぼ一致しているはずだと見られている。 尚、『康富記』での「後三年絵」に関するほぼ全文が、関幸彦『武士の誕生』(NHKブックス、1999年)に漢文でなく書き下し文で載っているほか、欠失部については野中哲照『後三年記詳注』に注釈や現代語訳も掲載されている。
※この「後白河法皇の承安本『後三年絵』」の解説は、「奥州後三年記」の解説の一部です。
「後白河法皇の承安本『後三年絵』」を含む「奥州後三年記」の記事については、「奥州後三年記」の概要を参照ください。
- 後白河法皇の承安本『後三年絵』のページへのリンク