『後三年記』から貞和本『後三年合戦絵詞』を経て『奥州後三年記』へとは? わかりやすく解説

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『後三年記』から貞和本『後三年合戦絵詞』を経て『奥州後三年記』へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 01:25 UTC 版)

奥州後三年記」の記事における「『後三年記』から貞和本『後三年合戦絵詞』を経て『奥州後三年記』へ」の解説

後三年記』原本院政初期平泉藤原氏初代藤原清衡のもとで成立したとされる。そこから承安元年1171年)に後白河上皇のもとで承安本『後三年絵』が制作されたり、貞和3年1347年)に貞和本『後三年合戦絵詞』(画工飛騨守惟久)がつくられたりした。貞和本は、もと6巻存在したとされ、そのうち3巻東京国立博物館収蔵されている。現存奥州後三年記』と称する写本・刊本類はすべて東博本の影響下にあるとされ、東博本が最善本であるという。近世初期に『奥州後三年記』の名称となり、『群書類従第二十に収載された。その「序」にはこうある。 俗呼でこれを八幡殿の後三年の軍と称す星霜はおほくあらたまれども、彼佳名は朽ることなし源流広く施して今にいたりて又弥新なり。古来の美歎、誰か威徳を仰がざらん。世上のしるところ猶ゆくすゑにつたへ示さん事を思ふ。・・・于時貞和三年法印権大僧都玄慧、一谷の衆命に応じて大綱小序を記すといふことしかり。 序文書いた玄慧は、天台密教修めて法印権大僧都となった当時屈指の学僧である。持明院殿殿上で『論語』を談じて花園上皇にも認められるその後足利尊氏の弟、足利直義恩顧受けて没後には、その文雅慕って追悼の詩を作る禅僧達もいたと伝えられる。その当時屈指の学僧が、序文担当していることで、この絵巻かなりの一大事であったことが判る。 『実隆公記永正1506年3年11月12日条に、中原康富がその絵を実見したとあって詞書源恵玄慧法印草し詞書筆者は「第一尊円親王第二公忠公、第三六条中納言有光第四仲直朝臣第五保脩朝臣第六行忠卿」(増補史料大成刊行会編『史料大成1965年)とある。 中原康富が見たものは、後述する『康富記』により、後白河法皇の承安本『後三年絵』であるので、三条西実隆承安本『後三年絵』を知らなかったのか、取り違えたのかもしれない。しかし、各巻詞書筆者は、東京国立博物館現存後三年合戦絵詞各巻末に記され筆者名と見事に一致しているという。このことから、貞和本『後三年合戦絵詞』は、本来6巻であったとされる東京国立博物館収蔵されている貞和本『後三年合戦絵詞』は全6巻のうち3巻留まるが、群書類従本には冒頭1巻分が残存しており、合わせて4巻分のストーリーを追うことができる。それでもなお欠けている2巻分の内容については、この『康富記』によって補うことができる(後述)。

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