武士の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:15 UTC 版)
寛平・延喜東国の乱の鎮圧に勲功をあげた皇族の出自を持つ武力統率者である「寛平延喜勲功者」が最初期の武士であったと考えられている。 また武士は、武力を有する在地階層がこれら統率者へ従い融合した組織だった(武士団)。鎮圧の功に連なることが一族存続のためには重要だった。武士は堀と土塁を巡らせた屋敷を拠点とした在地領主だった。 在地武士たちは、戦力を一定以上確保するために、自らに従う者を郎党と呼んで主従関係を結すび、また血縁関係者である「家の子」も合わせ、武士団が形成されていった。 武士は騎射戦闘力を磨いた。この頃、丸木弓に代わり、木と竹を張り合わせた合成弓が出現した。また、騎射戦闘に適した大鎧が開発された。刀も、それまでの直刀から蝦夷の蕨手刀の影響を受けて、馬上での使用に適した湾曲した刀、即ち日本刀が誕生した。このような新装備のため、武士の戦闘力は格段に向上した。 10世紀中頃に平将門や藤原純友が朝廷に対して反乱を起こし鎮圧された(承平天慶の乱)。朝廷は鎮圧に功績のあった者たちを受領級の中・下流貴族(四位・五位)に昇進させた(元は極めて低い官位にある中下級の官人であった)。この理由は、彼らを国家の重要な役割として認めるとともに、従来の不遇に対する不満が乱の原因になったとの認識があったためである。 この結果、10世紀後半の貴族社会において、承平天慶の乱の勲功者とその子孫たちは軍事に特化した家系、すなわち兵の家(つわもののいえ)として認知されるようになった。桓武平氏、清和源氏、秀郷流藤原氏が代表例で、軍事貴族としての地位を築いた。彼らは中央では上級貴族に奉仕し、地方では受領として現地の武士との関係を構築し、勢力を拡大していった。 寛仁3年(1019年)には女真の一派とみられる刀伊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻してきたが(刀伊の入寇)、大宰権帥藤原隆家と大蔵種材が率いる武士団が撃退している。
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