武士を埋葬したと思われるもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
「やぐら」の記事における「武士を埋葬したと思われるもの」の解説
なお、武士のやぐらの墓は報国寺のやぐらに足利家時と、ここで自刃した足利義久の墓がある(画像27)。ただしそのために掘られたものかどうかは判らない。釈迦堂奥やぐら群には宝戒寺普川国師入定窟と伝えるやぐらがあった。井戸のように深く掘られたところに火葬しない多数の人骨があって、中には刀傷のある頭蓋などがあった。そのことから鎌倉幕府滅亡時に東勝寺で討死、または自害した者を埋葬したのではないかとも噂されていた。後年、そのやぐら近辺が宅地造成で切り崩されるとき、五輪塔の地輪に種子と共に「元弘三年日五月二十八日」の日付を刻むものが見つかる。この日は北条氏滅亡の初七日にあたる。そのことから、おそらくは東勝寺で自害した北条一門を供養したものだろうとされる。北条政村の常磐亭跡などの奥にもやぐらがあることや、明月院のやぐらのように上杉憲方の墓と思われるものもあり(画像21)、武士がやぐらに葬られたことは間違いないと思われている。 武士は晩年、ないしは死の直前に出家するケースがほとんどで、「○○入道」などと彫られたものは見つかっている。例えば1935年(昭和10年)に二階堂の亀ヶ淵のやぐらに大甕が埋められているのが発見され、中に一体の骨が納めてあった。そしてその上は大きな切石で蓋をしてあり、その上に宝篋印塔1基と五輪塔が乗っていたが、その宝篋印塔や五輪塔には「清義禅定門」の供養碑であることが記され、五輪塔のひとつには「奉五輪妙相一基 永享五年八月二十日」とあった。永享5年(1433年)は室町時代中期である。「禅定門」は居士に似た戒名の位であり、武士であろうとは推測されるが、ただしそれらが誰だかは判らない。調査の結果彫られた銘文から身分や素性が判明したというものはない。
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