足利義久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/09 06:03 UTC 版)
足利 義久(あしかが よしひさ)は、室町時代中期の人物。関東公方・足利持氏の嫡男。「大若君」と呼称された。
注釈
- ^ 記録上、持氏の妻としては家臣とされる簗田河内守の娘(実際には簗田助良(満助)の姪と推定)しか伝えられていないが、実際には足利一門もしくは守護大名格の子女を正妻に迎えていたと思われ、義久は正妻の子であったと推測される[1]。
- ^ (異母兄の藤氏が既に一字を賜っていたという事情があった最後の当主義氏を除き)関東公方が将軍から賜る一字は将軍の諱の2文字目であり、「義」の字は義教の一字というよりは足利将軍家の通字と考える(本来は義教より「教」の一字を受けて「教氏」(のりうじ)とでも名乗るべきところであったのだろう)。無断での将軍家の通字の使用にはこれまでの関東公方が抱いてきた将軍職への野望があるという意図が窺えなくもない。
- ^ 『喜連川判鑑』では稲村満貞と共に自害したとするが、一説には満貞は持氏と共に永享11年に自害したとも。また、『下野喜連川足利家譜』では足利満直も義久・満貞と共に自害したとされている。
- ^ その他、『足利系図』では日付は記されていないが自害は持氏の自害後である。
出典
[続きの解説]
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